見出し画像

結城浩の「コミュニケーションの心がけ」2018年7月17日 Vol.329

はじめに

結城浩です。

いつも結城メルマガをご愛読ありがとうございます。

ここ数日、異常なまでの暑さでとろけそうになっています。

クーラーの効いた部屋に入るたびに「おお!クーラーよ!文明の利器よ!」と脳内合唱団が高らかに歌い上げますね。

あなたはいかがお過ごしでしょうか。

西日本は豪雨の影響でたいへんなことになっているようです。心からお見舞い申し上げます。

それでは、今週の結城メルマガを始めましょう。どうぞごゆっくりお読みください。

目次

・他人と自分とを比べてしまう
・知識を関連付けられる人と、そうできない人の違いは何か - 学ぶときの心がけ
・「集中して仕事しよう」というときに - 仕事の心がけ
・二要素認証 - 再発見の発想法
・小学一年生の子供に算数・数学を教えたい - 教えるときの心がけ

他人と自分とを比べてしまう

質問

こんにちは。

他人と自分を比べてしまうことで悩んでいます。

たとえば定期テストって、自分がどのくらい理解できているかを知るためのテストだと思います。なので、単位が取れる程度の点数がとれているなら、点数が多少悪くてもちゃんと復習すればいいだけのことのはずです。

ですが、自分より点数がいい人がいると「自分はその人に劣っているのだ」と「劣化なのだ」と深く考えてしまいます。疲れます。

どうすれば他人と自分を比べず自分の世界に入ることができるでしょうか。

回答

ご質問ありがとうございます。

世の中には、あなたとまったく同じように感じる人は、とても多いと思いますよ。他人と比べなくてもいいのに、つい比べちゃって、「自分は劣ってる」と考えてしまう。他人と比べても意味がないと頭ではわかっているのに、比べてしまって「自分は劣っている」と考えてしまう。

もともと人間というのは、人間に関心があるものです。それは健全なことでもあります。そして、学校生活において定期テストは大きなイベントですから、その結果で他人と自分とを比較してしまうのは、ある意味とても自然なことです。それに、自分の定期テストの結果を考察する上で他人の点数を気にすることは必要なことでもあります。

大事なのは「分離」だと思います。

「点数の良し悪し」と「自分自身の良し悪し」を分離する。

「成績の良し悪し」と「自分自身の良し悪し」を分離する。

あの人の点数と、自分の点数を比較したら、自分の点数の方が低かったとします。事実は事実。事実は曲げられませんし、事実は変わりません。ですから、そのまま受け止める。それは良い悪いではなく、事実なのですから。

問題は「点数の良し悪し」や「点数の比較」にはありません。問題は「点数」と「自分自身」を同一視しているところにあります。あなたは点数ではありません。あなたは成績ではありません。もちろんあなたが比べている「誰か」も点数ではなく、成績でもありません。

テストの点数というのは、私たちのほんの一部を切り取ったものにすぎません。点数に限らずそうです。姿形の美醜も、背の高さも、お金の量も、頭の回転も、話のうまさも、記憶している知識の量も、私たち自身ではないのです。そのことをしっかり心に留めることが大事だと思います。

点数が悪いことはこわくありません。こわいのは点数と人間を同一視することです。この違いをわかってない人は大人にもたくさんいます。

収入や、財産や、社会的地位や、職業や、性格や、家族のあり方や、国籍や、性別や、住んでいるところや、配偶者の属性や、とにかくありとあらゆることを、人間そのものの価値と結びつける人はたくさんいます。点数の良し悪しなんかよりも、そのような考え方の方がずっとこわいのです。どうしてこわいかというと自分の中に「ゆがんだ幸福観」を育てていくことに結びつくからです。

点数を他人と比べること自体は悪いことではありませんし、ある程度は必要なことです。しかし、それを人間の優劣に結びつけては絶対にいけません。それは、無限次元のベクトルの大きさを一つの成分の大小で測ろうとするくらい愚かなことです。

そのような考えに陥らないためには、普段からしっかりと意識してないとまずいです。世の中は、単純な指標で人間の価値が決まるという主張であふれていますから。どうしてそういう主張であふれているかというと、単純な指標で人間の価値が決まると信じている人には、その指標に関わるものを売りつけやすいからです。

高い点数を取ろうとするのは悪ではありませんし、そのような努力を否定するわけではありません。他人の点数と自分の点数を比較することも悪ではありません。でも、他人の点数よりも自分の点数が低いときに「自分は劣っている」と考えるのはまずいです。というのはその考えを裏返すなら、他人の点数よりも自分の点数が高いときに「相手は劣っている」と考えてしまいますから。

一つの指標で人間の価値を決める人は、自分がその指標で優位に立ったときに他者を見下しはじめます。世の中には絶え間なく他者を見下す行為を取る人がいます。スキあらば、いわゆる「マウント」を取りにいく人のことです。そのような行動の背後には、少ない指標で人の価値を判断するせまい認識と、自分が一つの指標で下になったら人間として価値がなくなるという深い誤解と劣等感が存在します。そのようなせまい認識と深い誤解を自分の中に育てないように注意しましょう。

話がだいぶそれてしまいました。点数の比較そのものは必要なことです。でも、点数の優劣は人間の優劣とは何の関係もありません。そもそも人間が人間の優劣を論じるのは思い上がった考えですし。そのことを心に留めておいてくださいね!

ご質問ありがとうございました。

知識を関連付けられる人と、そうできない人の違いは何か - 学ぶときの心がけ

質問

こんにちは。

授業を聞いていると、たとえ初めて聞く新しい概念であっても「なるほど、以前に習った概念を応用できるな」や「以前に習った知識を使えば理解が深まるな」という場面によく出会います。

自分はそのような感覚が普通のものだと思っていました。でも、友人の多くは新しい概念に出会うと、ただそのまま新しい概念として「暗記」しているようなのです。中には「勉強とは暗記である」という友人もいて、愕然としました。

僕には他人の勉強法を否定することなどできませんが、心では「すべてを暗記で対処するのは非効率的ではないか」という思いがあります。このとき友人には「すべて暗記ですますのは無理なのではないか」と伝えるべきでしょうか。

友人は自分から概念を関連付けることはしないようですが、僕が「この概念は以前習ったことと繋がっている」と教えると、友人は「なるほど」といって理解します。

僕は自分のことを頭がいいとは思いませんが、授業を聞いていて以前学んだ知識と新しい知識を繋げることができる人とできない人とでは何が違うと思いますか。

回答

ご質問ありがとうございます。

これは興味深い話題です。まず、あなたのおっしゃることはよくわかります。過去に習った知識と、いま習った知識を関連付けたり、これを変えればこっちも変わるなと考えたり、これはこれと同じ構造だと気付いたりする。そのようにして自分の知識をささやかながらも体系付けたくなる。そのような考え方は、結城にも自然に感じます。また、学習効率の面でも有効でしょう。すでに体系付けられている知識の場合でも、未知の領域に向かう場合でも有効でしょうね。

「すべて暗記ですますのは無理」と友人に伝えるのがいいかどうかはよくわかりません。友人との関係の深さに依存するからです。いうこと自体は問題ないと思います。友人がそれを受け入れるかどうか、また友人もそのような考え方をするかは、その友人本人の話ですから、あなたとは別の話になりますね。

ここから先は

5,051字 / 4画像

¥ 216

いただいたサポートは、本やコンピュータを買い、さまざまなWebサービスに触れ、結城が知見を深める費用として感謝しつつ使わせていただきます! アマゾンに書評を書いてくださるのも大きなサポートになりますので、よろしくお願いします。 https://amzn.to/2GRquOl