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書かない時間(文章を書く心がけ)

※全文を公開している「投げ銭」スタイルのノートです(結城メルマガVol.049より)

「文章を書く心がけ」のコーナーです。今回は「書かない時間」について。

先日、新井紀子さんの『ほんとうにいいの?デジタル教科書』という本を読みました。ずいぶん以前に買っていて読んでいなかったもので、時間があったのでふと読んだのです。

 ◆『ほんとうにいいの? デジタル教科書 (岩波ブックレット)』(新井 紀子)
 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4002708594/hyuki-mm-22/

岩波ブックレットというのは安価(560円)で薄く(70ページ)、良質の文章が読めるいいシリーズです。この『ほんとうに〜』もたいへん良い本でした。本の内容はタイトルの通り。デジタル教科書を教育現場に導入してほんとうにいいの?という疑問を提示するものです。

でもいまはこの本の内容を詳しく紹介するつもりはありません。読んでからずっと心に引っかかっていることがあるので、そのポイントを紹介しようと思います。

デジタルの制約を所与として受け入れたとき、教育にはどのような副作用が起こりうるかということに関して、以下、「教育効果を測定することの不可能性」(p.17)から引用。

 …残念なことだが、科学は万能ではない。「理解の深さ」のように、数量的に測定したり言語化したりすることができないタイプの教育効果は、基本的には測ったり比較したりすることは難しいのである。しかも、あからさまに顕著であるもの以外は、あるファクターが人間に対して及ぼす「長期的な影響」を統計的にあぶり出すことは難しい。
 『ほんとうにいいの?デジタル教科書』(p.17)より

「科学は万能ではない」というフレーズは手垢がついてしまった表現ですが、ここに書かれていることは考える価値があることだと感じました。

教育者、教育学者が教育効果を測定できるように研究したり努力したりすることは必要ですが、ここに書かれているような、「理解の深さ」のようなものは測定することがきわめて難しいということは認めなければならないでしょう。

結城はふだんから文章をたくさん書き、読者さんに自分の考えていることを伝えようとしています。読者さんに理解してもらうことは重要なテーマです。でも、その理解を「測定できるか」というとかなり難しいと思います。

もちろん、測定できることはあります。たとえば技術的な文章の章末や巻末に問題を出す手があります。。

 問題:公開鍵暗号を使って通信する場合、送信者が使用するのは公開鍵かプライベート鍵か。

このような質問を出して答えてもらう(ちなみにこの答えは「公開鍵」です)。そのような、いわば表面上の理解については測定可能でしょうし、やって問題はありません。

でも、単なる「理解」ではなく「理解の深さ」を測るにはどうするのか

テーマを与えて、ある程度まとまった文章を書いてもらえば、その人の「理解の深さ」をうかがいしることはできるかもしれません。でもそれはもはや機械的に測定したり、統計的に処理することは難しそうです。

そこまでいくと、サイエンスからアートの領域に踏み込んでいるように感じます。

結城は、ふだんの仕事でコンピュータや現代の技術からたくさんの恩恵を受けています。当然ながらデジタル処理の驚異的な力もそれなりにわかっています。力を得ることができるから、それを使おうと思うのも自然です。

しかし。

しかし、ほんとうにそれだけでいいのだろうか。

そんなふうに思うときがあります。

ここで、話は飛びます。ふだんの生活で結城はたくさんの文章を読み、たくさんの文章を書きます。コンピュータからやってくるたくさんのメッセージを処理して、コンピュータにたくさんのメッセージをたたき込みます。

それは、とても楽しいし、刺激的だし、仕事も進む。

でも。

でも、ほんとうにそれだけでいいのだろうか。

やっと、今日書こうと思っていたところまでたどり着きました。「書かない時間」について。

結城は「文章を書きながら考える」ことがよくあります。頭の中にふわふわと浮いている言葉を捕まえて、言葉にねじ込み、キーボードを叩いてビットとして固定する。そういう毎日を過ごしています。

だから、キーボードに触れていないと不安になります。自分がいろいろと考えていることが時間のままに流れ過ぎていくのが、もったいないような不安感を味わい、大事なものを川に流しているような気分に襲われます。

でも、そういう時間も必要じゃないのだろうか。

キーボードから手を離す。

iPhoneから手を離す。

Evernoteに書かない。

心に浮かんだことを、あえてそのままキープする。

そういうときも大事なのではないか。

すぐにビットに定着させるのではなく、頭の中のモラキュール(分子)に漂わせている時間も必要なのではないか。

そんな、ウェットな感覚を覚えるようになりました。

もしかして、これは年齢のせいか?

わかりません。

たとえば、本を読みます。ぱらぱらめくって読み、印象に残るフレーズを見かける。そのときどうするかという話。ぱしゃっとiPhoneで撮影してEvernoteに送信! まあ、それは特に悪いことではないし、それが必要な場合もある。

でも、Evernoteに入れて「後で見る」だけではなく、「いま、ここの出会い」を大切にして、じっと考えるということも大事。あたふたとキー操作に時間を使うのをやめる。「処理しよう」という気持ちをじっと抑え、ただひたすらに「味わう」時間も大事なのではないか。繰り返しになりますが、最近そんなふうに思うことがときどきあります。

文章を書くというのは、あいまいなものを明確にする行為です。ビットに定着させ、ふわっとしたものをまずは一次近似としての言葉に落とし込む。確かにそれはデジタルな行為です。

そこをあえて、そこをわざと、ビットに定着させずに漂わせてみるというのも、おもしろいんじゃないかな、と思うのです。

結城は文章を書いて考えます。きっとこれからもずっとそうです。でも、ときには文章を書かずに考える、ということも大事にしたい。ここを通り抜けると、何か大きなブレークスルーが結城の中で起きるように思うのです。

何となく、ですけれどね。

 * * *

以上、「文章を書く心がけ - 書かない時間」でした。

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※Photo by Walt Stoneburner.
https://www.flickr.com/photos/waltstoneburner/7946581522/

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