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歩いて考える(文章を書く心がけ)

結城浩のメールマガジン 2014年7月15日 Vol.120より

結城は「歩いて文章を考える」ことがよくあります。

朝、家を出て森を抜けて仕事場に向かう途中、歩きながらずっと文章を考えます。気に入ったフレーズやキーワードを思いついたら、iPhoneでEvernoteにメモをすることもありますが、メモなどせずにずっと考え続けることもあります。

メモをしないと文章は端から忘れていくのですが、特に惜しくはありません。というのは一度考えた文章は、少しのあいだなら簡単に復元できるからです。それはちょうど、草原の草を踏みしめて歩くようなもの。少しのあいだなら、自分の通ってきた後をたどることができるのです。

無理して記憶に留めることよりも、歩きながら新しい道を「探る」ことの方が文章書きには向いているようです。まるで自分が物理的に移動することが、思考の歩みも助けるようなものです。不思議なことです。

午前中に一時間から二時間くらい文章を書いて、そこから場所を移動してまた書きます。具体的には一つのカフェから別のカフェに移ることになります。場所を移動するのは時間の無駄で、続けて何時間も書いた方がいいと思っていたこともあるのですが、それほど話は単純ではないようです。

つまり、文章を書く途中で身体を動かすのは意外に文章を書く助けになるのです。経験的には、特に足を動かす(つまり歩く)ことが大事のようです。

文章が一区切りついたところで歩くのもいいですけれど、一区切りつかない状態で歩くのもいいものです。もしかすると、そっちの方が有効かもしれません。文章を書いているときの頭はとても活性化していて、そう急激には止まりません。ですからたとえ歩いていても、頭のどこかの部分は勝手に動いていて、何かしら活動を続けているようなのです。

歩いているうちに、頭は「机にかじりついているときには見つからない何か」を見つけてくることがあります。それが文章に対して想像以上の深みをもたらすこともあるのではないか、そんなふうによく思います。

 * * *

文章に限らず、プログラミングをするときも、数学の問題を考えるときも歩くのは有効です。

多くのプログラマは歩いているときに、バグ(プログラムの誤り)を「発見」した経験があります。

「あ、あの計算まちがっていた!」
「条件を見逃しているところがある!」

歩いている途中でそんな声を上げたくなる経験です。

意識的に考えて歩いているときにバグを見つけることもありますが、まるで天からの閃きのように出し抜けに思いつくこともあります。それもやはり意識下のレベルで頭が考えているのでしょうね。「歩く」という動作はそのような思考を促すのでしょうか。

そう考えると、文章を書く(あるいはプログラムを書く、数学の問題を解く)ことは想像以上に身体全体の問題なのかもしれません。

 * * *

身体といえば、私が家で書き物をしていると家内からよく

「あなた、姿勢が悪いわよ」

と怒られたものでした。姿勢が悪いと内臓を圧迫して良くないし、血行も悪くなるから頭に血が回らないでしょう……とひとしきり言われます。そしてさらに、

「姿勢が悪いのは筋力が弱いから」

と話は続きます。背筋を始めとする筋力が弱いために姿勢を維持することができず、背中が曲がるのだと。

はじめのうちは「何だかずいぶん決めつけるような話だなあ」と思っていましたが、何度も言われているうちに「確かに自分は姿勢がよくないかもしれない」と自覚するようになりました。

最近はあまり注意されなくなったのは、今年になって始めた筋トレが功を奏しているのでしょうか。

背筋を始めとする筋力が強くなって姿勢を維持できるようになり、血行もよくなり、頭にもっと血が回ってくれるといいのですがね。

 * * *

歩くこと、進むこと、動くこと……そのような身体的な活動と、文章やプログラムを書いたりすることのあいだには、決して無視できない関係があるようです。

たとえば、長い文章を書いていて、論旨が曲がってくることがあります。自分の言いたいこととは違う方向に(しかも悪い方向に)文章が移っていく。だいぶ書き進んでから「あれ、自分の言いたいことはこうじゃなかったのに」と不思議に思うこともあります。これは書き手の進む力が、文章の流れに負けてしまった状態です。

文章は独立した重さや力や流れを持っているので、うまく棹さして制御しないと負けてしまいます。書き手が完全に制御を放棄してしまうと、いかにも「なりゆき」で書いてしまったような文章ができあがります(その一方で、書き手が力任せに書いてしまって理解不能な文章になることもあるのですが、それはまた別の話)。

 * * *

作曲家の團伊玖磨が書いていた文章だと思うのですが、音楽を書いていくとき「このまま進むかどうか迷うとき」があるそうです。おそらく交響曲のような長大な楽曲を作るときのことでしょうね。

楽譜を頭から順番に書いてきて、途中で止まる。何となく違和感を感じる。

  • このまま進んでいいか?

  • もどって別の道を探るべきか?

この判断を迫られるときがあるということです。もちろん正解はありません。

このまま進むことで違和感は消え、無事に完成に至るかもしれない。でも時間を使って進んだ結果、やっぱり後戻りするはめになるかもしれない。もどって別の道を探るとなったら、そこまでの楽譜は捨てることになります。

判断が求められる。

それは、よく知らない道を歩くのに似ているかもしれません。もしかしたらそれは山の中の草が茂った道かもしれず、あれ?こんなところに出ちゃったよという違和感を感じる瞬間です。

  • このまま進んでいいか?

  • もどって別の道を探るべきか?

判断を迫られますが、正解はありません。いや、正解はあるのかもしれないけれど、自分にはわからないという状態で悩むことになります。

文章を書くことと、道を歩くことはとても似ています。進むか、戻るか、判断を迫られる。自分の力や残り時間との兼ね合いも。

そのプロセスがおもしろさでもあり、苦しさでもあるのでしょう。

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