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自由に選択できるということ(人生を歩む)

年齢のせいなのか、季節のせいなのか、

自分は、何を求めて毎日を生きているのだろう

ということをよく考えます。

「何を求めて」といってもいいし、「何をするために」といってもかまいません。「生きることの意味」と表現することもできるでしょう。

「自分が今日生きている」というのは、「今日という時間が自分には与えられている」と表現できるでしょう。もっと大げさにいえば、

「今日という自分の命を、何に注ぐのか」

という自由と選択肢が与えられているともいえます。

過去の選択の積み重ねが現在の現在に連なっているように、今日の選択が明日の自分に連なっていることはまちがいありません。それは、なかなかこわいものだなあと思います。

憲法は、職業選択の自由や、信仰の自由を謳っています。自由を保証しています。それはすばらしいことですが、こわいと感じることもよくあります。それは「自由」という言葉から、

「選択するのはあなた自身だ」

と言われているように感じるからです。

選ぶのはあなただ。他の誰でもないあなたが選ぶことであり、選んだことなのだ。そう考えるとき、私は緊張してしまいます。

「他人のせいにはできない」

と言われているように感じるからかもしれません。

 私は、誰?
 私は、何をしたいの?
 私は、何を「よし」と考えて、何を「よくない」と考えるの?

そのような自己認識、自己の行動、そして自己の価値観。それらを選び取るのが自分自身であることは、ときにはきつく感じることもありますね。「自由」と「選択」というのは、とてもこわいものです。

半世紀以上をこの世で過ごした身でさえも、このような基本的なことで思い惑っているのですから、この世に生まれて二十年足らずの高校生が、進路について悩むのは当然のことだろうなあ……などと、高校生の物語を書きながら私は考えるのです。

引き算ができる人は、自分がこの世に生きていられる年数が、最大どれほどかを計算できます。ほとんどすべての人が、たかだかあと数十年。

 春の桜を愛でることも、
 夏の花火を楽しむことも、
 秋の落ち葉を踏みしめる音に耳を澄ませることも、
 そして、吐く息が白くなる冬の雪の朝も。

そんな巡り行く季節に出会うのも、たかだかあと数十回。

それを意識した上で。

さて、今日は。

今日の自分は、何を選ぶか。

自分なりの、今日の一歩を進めましょう!

結城浩のメールマガジン 2017年9月12日 Vol.285 より

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