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若いときに学ぶ(学ぶときの心がけ)

若い時代の学びの大切さは、歳を取ってみると痛感する。「少年老い易く学成り難し」とはよく言ったものである。

時間は巻き戻せない。くやしい。でもこの切実さはなかなか若者には伝わらない。何とか若者に「時間は大事だ」「若い頃の学びは大事だ」と伝えたいのだが、なかなか伝わらない。伝えようとしているうちにふと、自分が若かった頃に年長者から「少年老い易く学成り難し」と言われたことを思い出す。

「ああ、あのときのあの人の言葉は、私がいま伝えようとしている気持ちをよく伝えていたなあ!……あのときは、気付かなかったけど」

なかなか難しいものである。

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学びには広さもあるし、深さもある。自分の視野を広げて、どれだけいろんなことを学ぶか。あちこち浮気しないで、どれだけ一つのことに集中できるか。相反するようなものだけれど、でも両方必要だ。

何を学ぶべきなんだろう。その問いへの答えは「最終的には自己判断」ということになる。

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結城は、中学高校時代は、英語と数学が大好きで、のめり込んでいた。大学からは数学よりはプログラミングにのめり込んでいた。プログラミングだけではなく文章書きの練習もしていた。

と、ここまで書いてきて手が止まった。あれ? どうして私は大学時代に文章書きの練習をしてたんだろう。将来文章を書く仕事をしていこうなんて意識したことはなかったのに。不思議である。

ともかく、結城は大学在学中から文章を書く練習を継続的にしていた。練習といってもたいした話ではない。基本的には、

 毎日、一定量以上の文章を書く

というだけのことである。大学一、二年のころから、原稿用紙の束を用意して、万年筆で(そういう時代だったのです)大量の文章を書いていた。身辺雑記が多かったと思う。身の回りのことから、自分が考えていること、要するにいま結城がこのメルマガで書いているようなことに近い。

その大半はいつのまにか散逸してしまったけれど、ほんとうにたくさん書いたと思う。まるで何かに追われるようにして書いていた。

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文章書きはプログラミングと似ている。習うより慣れろという面がある。まずはとにかく下手でも書く。つべこべいわずにどんどん書く。そして何度も読み返す。何度も何度も読み返す。もっと良い書き方はないかを考える。そのようなサイクルに一定以上の時間を掛ける。一定以上の時間を掛けなければ、文章はうまくならない。

いろんなメソッドはある。いろんなテキストや方法論もある。もちろんそれらは有効なんだろう。でも、もしも、習得のための「時間」をきちんと確保していなかったら、毎回の学習で自分の頭を回転させていなかったら、どんなメソッドもテキストも方法論も無意味である。

どんなことを学ぶにせよ、メソッド・マニアは存在する。このメソッドはいいだろうか。このメソッドは最善だろうか。それを気にするのは悪くない。ただし、メソッドのよしあしを気にしすぎると、泥臭い練習をするための時間がなくなってしまう。

つまり、よいメソッドの探索が悪いわけではなくて、よいメソッドの探索を適当なところで打ち切らないのが悪いのだ。

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結城は本をたくさん書いている。その多くは「入門書」つまり学びの本だ。結城は、学ぶことに関心がある。学びが下手な人は参考書を多く買う。参考書を買わないと不安になるからだ。参考書を買うのはいい。しかし買うだけで満足するのは困る。学び上手の参考書はボロボロである(紙の場合)。それは、実際に学んでいるからだ。

先日電車に乗ったとき、目の前に立った若者が、結城の本をつり革につかまって読んでいた。私はドキドキしながらその若者を観察していた。本には付箋がいっぱいついていて、手垢ですごく汚かった。私はこの上ない幸福感で包まれた。

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人は、自分が望むことを無意識に行う。

知りたいという気持ちが強い人は、知るための行動を取る。テストで点を取りたいと思う人は、点を取るための行動を取る。遠くに行きたい人は遠くに行く。遠くに行きたいけど、そこまでの苦労をしたくはない人は、現在の場所にいる。

人は、自分が望んでいることを無意識に行う。

自分が変化することにはリスクが伴う。リスクを取る人と取らない人がいる。どちらがいいとは言えない。本人の選択だけの話だ。選択の結果がうまくいくこともあれば、うまくいかないこともある。選択の直後に最高の結果だと思っていたのに、あとから最悪の結果を生むことだってよくあるだろう。

他人の行動を参考にして、自分がどうするかを決めるのは悪くはない。リスク回避にもいいかもしれない。でも、いくら他人の行動を参考にしたとしても、最後の最後には「では、他ならぬワタシはどう行動するか」という決断が待っている。あたりまえのことだ。

決断に正解はない。何十冊の参考書を開いても、一般論しか載っていない。巻末の解答をいくら読み返しても、

 「他ならぬワタシはどう行動すべきか」

という問いへの答えは書いていない。

そして、そのときこそ、「学び」が問われるのだ。自分は何を学んできたか。学校で、家庭で、読書で、同僚との対話で、大好きな《あの人》との対話を通して、自分は何を学んできたのか。

自分のこととして考えたか。真剣に考えるべきことと、軽く流すべきことを識別してきたか。

すべてのすべてを総合して、他ならぬワタシが、どうすべきかを考える。判断し、決断する。それが人生である。

「学びの人生」は、きっと「豊かなものに出会う人生」のはずだ。

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結城浩の「コミュニケーションの心がけ」2015年4月21日 Vol.160 より

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