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結城先生はどのように本と付き合っていますか?(Q&A)

※全文を公開している「投げ銭」スタイルのノートです(結城メルマガVol.143より)

こんにちは、結城浩です。

「結城メルマガ」読者さんからの質問に答えるコーナーです。

質問は、必ずしも読者さんからの文章そのままではありません。結城が編集したり、複数人の質問を一つにまとめたりする場合があります。ご了承ください。

質問

結城先生こんにちは。結城メルマガへの要望です。

結城先生の本との付き合い方、生活の中の本について、ぜひメルマガで読んでみたいと思っています。

先生の書かれているものを拝読していると、文章を書かれているのはもちろん、大変勉強なさっている(読書なさっている)と感じるからです。

本の読み方、本のある生活スタイルなどについてもお聞かせください。

以前、線を引いたり書き込みをしたりして本を読んでいるというお話がありました。現在はどのようにお考えでしょうか。

効率的な読書術を知りたいというより、先生が本を生活の中にどのように位置付けているのかをおうかがいしたいです。そして、学んだことを自分の生活に取り入れたいと思っています。

よろしくお願いいたします。

回答

結城メルマガへのご要望&ご質問ありがとうございます。

本との付き合い方についてということですね。

結城は読書速度も速くないし、膨大な本を読みこなしているわけでもありません。最近は記憶力も低下してしまいました。でも、書籍の紹介や効率的な読書という話から一歩引いてみると、お話しできることも少しあるかもしれませんね。

●自分の古典を持つ

ご質問をいただいて最初に考えたことは、

 「自分が読んでいる本は、とても少ない」

ということです。私のことを読書家とはとてもいえません。

ただ、読んでいる本の冊数は少ないですが、

 「同じ本を何度も繰り返して読む」

とはいえますね。お気に入りの本が何冊かあって、それを順繰りに回っている感じがします。渡部昇一の『知的生活の方法』という本の表現を借りると、

 「自分の古典」

を持とうとしていると言えるでしょう。そう表現すれば、読んでいる本が少ないことも格好つきそうです(と、これは冗談)。

●自分のテイストを確認する

結城が同じ本を繰り返し読むのが好きなのは、おそらく、情報を得るために読んでいるのではないからでしょうね。情報を得るためではなく、自分のテイスト(taste)を確認するために読んでいることが多いのかもしれません。

本に書かれていることを読む。以前は「いいな」と思ったことが「そうかなあ」と感じられるようになった。これは読んでいる本が大したことがなかったのか、自分の感覚がおかしくなったのか。ひとしきり、自分で吟味する……私が同じ本を繰り返し読むというときには、そのようなプロセスを含んでいるように思います。

●再読に耐えられる本を集める

「自分の古典を持つ」というのは、「再読に耐えられる本を集める」と言い換えることができます。

そもそも古典が古典なのは、時間という荒波に耐えてきたからです。それと同じように、何度も読み返して飽きない本、何度読み返しても毎回発見がある本、そういう本が自分の周りにあるのは幸福なことだと思います。

「自分の古典」を作ることは、自分以外にはできません。他の人の意見は参考にはなりますが、実際に再読するのは自分であり、再読したときにどう感じるかまでは、他の人に任せられません。

他の人との比較が無意味になった時点で、読書は純粋な楽しみに変わります。

●本を書くこととの関係

そこまで考えてくると、結城の本の読み方は、結城の本の書き方(結城が書きたいと思っている本の姿)と表裏一体になっていることがわかります。

 ・時間が経っても古びない本。
 ・再読に耐える本。
 ・個人的な「古典」になりうる本。

そのような本を私は読者としても求めており、著者としても求めている。そう言えますね(とこの文章を書いていて気付きました)。

●仕事としての読書

とはいうものの、そんな悠長な読み方だけをしているわけにもいきません。本を書く上では、新しい情報を得るための読書や、調べ物としての読書も必要だからです。

純粋に楽しみで読むための読書は、頭から順番に読みますが、仕事として読むための読書は、順番など気にせず読みます。

それはちょっと不正確かな。ありとあらゆる順番で読みます。あることを「調べよう」と思ったら、それに関係する本を集め、目次を読み、索引を読み、キーワードを使って縦断的に読み、というように本の上を巡り歩きます。

調べ物をしているときに注意するのは主に二点あります。

 ・この本の内容は、信頼できそうか(著者に注目)。
 ・この本の内容を、理解できそうか(自分に注目)。

お仕事としての読書は、直接的・間接的に自分の著作に影響を与えます。なのでどういう著者の本を読むか、参考にするかは重要です。「ガベージ・イン、ガベージ・アウト」すなわち、自分の中にゴミを入れてばかりいたら、出てくるものもゴミになってしまうからです。

しかしながら、いくら良い本であっても、内容が自分で理解できないほど難しかったらだめです。数学的な本の場合、自分の力量以上の本ばかり読んでいると、めげてしまったり、勝手な推測で誤解してしまったりする危険がありますから。

なので、著者に注目して「信頼できそうかな」という判断と、自分に注目して「理解できそうかな」という判断が必要になるのです。

●本は買うもの、書き込むもの

ご質問の中に「本に線を引く」という話が出てきました。

結城は、お仕事で読むときは特に、筆記用具を持ってがりがり書き込みながら本を読むのが好きです。

そうするのは、具体的に計算したりして、自分の理解をプラクティカルに確かめるためでもありますし、その本を「征服した気分」になるからでもあります。さらには、本からインスピレーションを得たことを、自分の著作に生かすためのメモのときもありますね。

書き込みが特に重要な場合には、カメラで撮影して、Evernoteに保存することが多いです。「次に書く本」に直接役立つ内容の場合もありますし、「いつか書く本」のための種蒔きの場合もあります。

自分で書き込みをたくさんした本は最後に自炊してPDFにします。そうすることで、自分が一通り征服した本が、自分のメモとともに「いつか役立つ資料」となってくれるのです。

電子書籍の場合にはスクリーンショットをどんどん取って、そこに線を引いたりテキストを書き込んだりします。本はどんどん切り刻んで自分の血肉にしていくという感じです。ぼりぼり囓ってむしゃむしゃ食べるみたいな。

ということで、現在でも結城は本に線を引いたり書き込みをしています。そしてそのために、「本は買う」ようにしています。図書館でぱらぱら眺めることもなくはありませんが、お仕事で使う本はほとんど買います。

結城が買う本は高い本といっても、せいぜい一万円か、いくら高くても二万円。お仕事に使う道具としては、非常に安いものだと思います。

●間合いを計る手段としての本

ご質問をいただいて自分を振り返ってみました。純粋に楽しみとしてだけ本を読んでいるわけでもなく、研究者のように専門書の精読をするのとも違う読み方をしていると感じます。

本を読むというのは、知的な空間の中での自分の立ち位置、他者との間合いを計る手段のようにも思います。

抽象的ですね。

自分が本を読むときには、「著者が信頼できるか」と「自分が理解できるか」に気を付ける、と先ほど書きました。

それっていうのは、本を介して、著者と自分との「間合い」を測っている感じがするのです。

まだ、抽象的ですね。

本を読みながら、結城は以下のようなことを思います。もちろん、この四パターンだけというわけではありません。

 (1)この著者は信頼できるけれど、対象読者は、結城レベルではなく、ずっと詳しい人だなあ。まださっぱりわからん!

 (2)この著者は信頼できる。そして、この本の対象読者はちょうど結城レベルだ。おもしろい!

 (3)この著者は信頼できる。結城が簡単に理解できる話を書いている。なるほど、こういうふうに表現すればいいのか。内容はさておき、表現について勉強になるな。

 (4)この著者は信頼できない。表現はうまいけれど、書いている内容は眉唾だ。誤解を深めてしまう危険があるぞ。

このように考えながら読み進めることで、著者と自分の距離感や、深みなどを確かめているのです。それを先ほどは「間合い」と表現してみました。

 * * *

思ったよりも長くなってしまいました。とりあえず、こんなところで、第一弾のお返事といたします。

もしもさらに何かお話ししたほうがよいことがあれば、ご遠慮なくお知らせくださいね。

ではまた!

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