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「私は社会でやっていけない」という若い人へ(日々の日記)

ときおり、こんなことを言う若い人がいます。

 自分には能力がない。
 自分は失敗ばかりしている。
 自分は社会に出たけどやっていけない。
 自分には生きる価値がない。

そういう人が多いかどうかは知りませんが、そういうことを思う人が存在することはよく理解できます。難しい時代ですから。

ところで、ある若い人とおしゃべりしていて感じたことを少し書いてみたいと思います(その人からは公開許可を得ています)。その人も「私は社会でやっていけない」と言うのですが、話していて気付いたことがあります。それは、

 この人、自分のことしか語っていないぞ

という点です。その人の主張は、

 「私は○○である。なぜなら私がそう思うから」

と要約できるステートメントが多いのです。言い換えると、他人が登場する場面がとても少ない。

他人が登場するのがゼロではありません。でも、他人が登場するときの表現は、

 「あの人から○○という視線が飛んできた」
 「あの人から○○だと思われているはず」

というものになることが多いのです。 第三者の結城は、話を聞きながら、うーん、それって本当にそうなのかな……と感じてしまいました。

だからその人が悪いと言いたいわけではありません。良い悪いを判断したいわけではなくて、何となく「偏っている」と感じたのです。話が偏っている。視点が偏っている。そういう意味です。

確かに「自分が自分をどう見るか」いう自己評価は重要です。でも、客観的に他の人から見た自分はどうなのかな、という情報も重要だと思います。

 * * *

私が話している若い人はある仕事を任されています。本人は「意味が無い仕事だ。ゼロである」と言うけれど、私にはそうは思えませんでした。それなりの仕事を任されていると思いました。ということは、複数の人から期待されている仕事ともいえます。それを自分の判断でゼロと思うのはどうかなあ、と思いました。

「客観的にみたらそれほど悪くない」のに、「何をどう考えてもゼロとしか思えない」というのならば、自分の心の健康を考えたほうがいいかもしれない、と感じました。

どうしてこのようなことを書いているかというと、現代は孤独な時代だからです。おせっかいなことをいう人がそばにいないと、たったひとりでドツボにハマる可能性がある。精神科医や心療内科がパーフェクトではないし、教会に行けばいいとも限らないけれど、ともかく「他者との接点」は大事です。

心の調子が悪い人は、他の人と接する時間を意識的に持った方がいいです。もちろん、自分に負担が掛からない、余裕がある人の方がいいと思います。変な言い方になるかもしれないけれど、そういう人を何人かふだんから「押さえておく」のは生きるために必要です。

人生の大きな判断をするとき。季節の変わり目。身体や心が弱っているとき。そういうときに「真面目な人」ほど深刻になりすぎる危険性があります。

人生は、パーフェクトにこなさなくてもいいのです。失敗してもいいのです。適度に転んだり、よろけたり、恥をかいたりしていいのですよ。他の人に多少の迷惑をかけてもいいのです。そういうことがあるのが人生だと思います。あなたも他の人に迷惑かけられたりするでしょう?

他人とのあれこれや、もめごとは、実は大したことがありません。深刻になって危険なのは「自分とのもめごと」です。価値判断を自分の内部に持つ人はちょっと注意してくださいね。客観的な判断のつもりでいて、登場人物が自分しかいないような場合、それはぜんぜん客観的な判断ではないからです。

自分にはまったく能力がない!と言いながら、「《自分の能力を判断する》能力」には絶対の信頼を置いている。自分は今後もずっとこのままでしかない!というのは、「《自分の未来を見通す》能力」まで備わっていることになります。それはちょっと変な話です。

あやういときには、まわりに助けを求めていいのです。わーわー叫んでいいのです。周りは助けにならないかもしれない。助けてくれないかもしれない。でも、セーフティネットとして、騒いでおくのもいいんですよ。

冬から春。春から夏。いまの季節は、大きな変化が終わった後の疲れが出たり。ふっと一息ついてわが身を振り返ったり。エアポケットのような状態になる危険性があります。無理しないで休んでもいいんですよ。人生は長いです。ジグザグ進みましょう。

 * * *

小学校のころ、いまにして思えばしょうもないことで悩んだものです。おこづかいのことや、おもちゃのこと、友達のこと。いまにしてみれば、なんであんなことで悩んだのかと思うようなこと。現在も同じです。何年か、十何年かしてみれば、風景はがらりと変わります。

厳しさ、鋭さ、確かさ、正しさ。そのような規範は、私たちの生活を張りのあるものにします。でも、たまにはそれをゆるめることも必要です。ゆるめる余裕も必要です。 その「ゆるみ」のことを「遊び」と呼ぶのです。

疲れているとき、気圧が低くなるとき、お腹が空いているとき、理不尽な一言を言われたとき、電車で足を踏まれたとき、私たちは何ともいえない思いにとらわれます。

そんなときにこそ「遊び」が役立ちます。人生いろんなことがあります。良いことも悪いこともあります。自分の人生をにぎりしめすぎないように。自分の人生は大事なものですから、なおさら、「遊び」を持って進まないと。

 * * *

とくに大事なのが「誰かとしょうもないことを話す」という時間です。これは心に「遊び」を作り出します。馬鹿なこといって、大笑いする時間は重要です。真面目な人は、しっかりと、不真面目になる時間を作りましょう。

不真面目な時間、遊びの時間を通り過ぎてこそ、真面目な時間を作り出すことができます。大丈夫。大丈夫。ここまで歩んで来たんですから、これからも歩んでいけますよ。

あわてず、あせらず、あそびつつ。

ね。

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結城浩の「コミュニケーションの心がけ」2015年5月12日 Vol.163 より


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