「知る」と「理解する」との違いは何か(学ぶときの心がけ)
質問
最近、僕は数学を「理解したい」のではなく「知りたい」のではないかと感じるようになりました。
もちろん、わからないところは「どうしてだろう」と考えます。そしてわかったら「なるほどそういうことか!」とうれしくなります。でも、それは「理解した」ことに対する喜びよりも、どうして成り立つかという事実を「知った」ことに対する喜びなのだと思います。
僕は、数学を「理解しなくては」と思うと「あれもわかっていない、これもわかっていない、ああ自分は何にもわかっていないんだ……」と、気持ちの上で負のスパイラルにはまってしまいます。
結城先生におうかがいしたいのですが、「知りたい」という気持ちと「理解したい」という気持ちの違いは何だとお考えになりますか。
答えていただければ幸いです。よろしくお願いします。
結城浩のメールマガジン 2018年10月2日 Vol.340 より
回答
ご質問ありがとうございます。
非常に興味深い質問です。あなたのおっしゃっていることからの推測になりますが、あなたのいう「知る」は「理解する」よりも表面的な概念だと感じます。
たとえていうならば「aはAである」というのが「知る」で「じゃ、bはaとよく似ているが、それもAといえるのか」と問われたときに考えることができる状態が「理解する」のように聞こえました(あくまでたとえですが)。知識を情報として持っているだけではなく、知識間の関係や構造を把握し、それを活用できるということです。
あなたのいう「数学を知りたい」という気持ちは、まずは数学の世界、数学で描かれているものに触れたいという気持ちのように聞こえます。
また、あなたのいう「数学を理解したい」という気持ちは、そこからもう一歩進んで、数学の世界の中に入り、そこで自由に歩き回りたいという気持ちだと推測しました。表面上のことを受動的に「知る」だけではなく、深層に至るまで能動的に「理解する」という意味です。
もちろんそれは、どちらが「いい」「わるい」というものではありません。そもそも数学とひとことで言っても、分野も難易度も信じられないほど範囲が広いわけですから「この概念については、深く深く理解したい」や「あの分野は、いつか理解したいとは思うけど、いまのところは概要だけでも知りたい」のようになるのが自然です。
数学の世界は想像を絶するほど広くて深いのです。全人類と恋に落ちるのが不可能であるように、数学の世界との関わりというのは、深く進めば進むほど、非常に限定的にならざるを得ないでしょう。中学や高校で学ぶ数学は基本的なものなので、最初から限定する必要はありませんけれどね。
自分の手のひらに乗っているリンゴのようにつぶさにその数学的な概念を見つめられる場合もあるでしょうし、遠い星のようにその輝きだけをわずかにとらえられる場合もあるでしょう。「知りたい」のか「理解したい」のかをあまり決めつけず、長くお付き合いするのがいいのではないでしょうか。
最初は単に事実を「知る」だけだったのが、長いお付き合いをして気がつくと意外に深いところまで「理解する」状態になっているのもありそうです。ちょうど、人間関係と同じように。
私はそんなふうに思いました。ご質問ありがとうございました。
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