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恋し続けたなら必ず逢える(古今和歌集を読む)

たとえばこんな恋の歌。

種しあれば岩にも松は生ひにけり恋をし恋ひば逢はざらめやも

これは古今和歌集の512番、読人しらずの恋の歌です。

現代語で大意を書くと次のようになります。

種があるので岩にも松は生えるのです。あなたを恋し続けたならば逢わないなんてことがあるでしょうか。いえ、そんなことはありません。

「恋し続けることで必ず逢える」という気持ちを詠んでいるものですね。古今和歌集が編まれたのは十世紀ですが、この歌のような気持ちは二十一世紀でもまったく色あせないのではないでしょうか。

この歌の冒頭「種しあれば」の「あれば」は、現代語の感覚だと「もし種があれば」のような仮定を表していると読みそうになります。でも仮定を表すなら古文では「種しあれば」ではなく「種しあらば」となっているはずです。ですから上の大意でも「種があれば」ではなく「種があるので」と書きました。

「種しあれば」の「し」というのは強意を表しています。現代でも強意の「し」は残っています。たとえば「生きとし生けるもの」という表現がありますよね。ここにも強意の「し」が出てきています。実は「生きとし生けるもの」という表現は古今和歌集の仮名序に出てきます(初出というわけではありません。初出は不明)。

今回の歌の下の句は「恋をし恋ひば逢はざらめやも」となっています。現代文しか知らないと「恋をし恋ひば逢はざらめやも」なんて呪文のように聞こえます。「恋」は別ですけれどね。

「恋をし」まで現代文の感覚で読むと「ああ、恋をする」ということかなと誤解しそうになりますが、この「し」も強意を表しています。つまり「恋をし恋ひば」は「恋して恋して恋し続けたならば」ということです。

「恋ひば」は「恋ひ+ば」。「恋ひ」を古語辞典で引くと、ハ行上二段活用「恋ふ」は〔ひ・ひ・ふ・ふる・ふれ・ひよ〕のように活用することがわかります。「恋ひ」だから、未然形または連用形のはず。そこで「ば」を調べます。接続助詞「ば」は、未然形か已然形につくと古語辞典にありますので、「恋ひば」の「恋ひ」は未然形と確定します。AまたはBで、Bではないとしたら、Aと確定。論理的ですね!

では「恋ひ」という未然形に付いた接続助詞の「ば」は、「恋い慕う」という意味に何を添えるのでしょうか。古語辞典を引きましょう。すると、順接の仮定条件として「もし…ならば」という意味だと書いてあります。ということは「恋ひば」というのは「もし恋するならば」という意味になります。「こひば(読み方はこいば)」という三文字でそれを表せるなんてすてきじゃありませんか。

ここまで調べると「恋をし恋ひば」が確かに「恋し続けたならば」という意味であることがわかります。

では呪文の後半「逢はざらめやも」はどう解釈すればいいのでしょう。「逢は+ざら+め+やも」とあたりをつけて調べていきます。「ざら」は確か打消だな。「め」はたぶん「む」が活用したものだな。「やも」って何だっけ。のようにして古語辞典を引いていきます。

「逢はざらめ」だけ読むと「逢わないだろう」とか「逢わないのがいい」とか「逢うべきじゃない」という意味になってしまうことがわかりました。でも、あれれ、変ですね。「もしもあなたに恋すれば逢わないだろう」なんて、理屈に合いません。でも古語辞典で「やも」を見ると「反語」だと書いてあります。これで謎が解けました。

反語なので「あなたを恋し続けたならば逢わないなんてことがあるでしょうか。いえ、そんなことはありません」という意味になるのです。

ところで、上の句に出てきた「種しあれば」は已然形に「ば」でした。それに対して下の句の「恋ひば」は未然形に「ば」でした。この差異と対比を意識するのは大事ではないかと考えました。

種があるからこそ松は生えるのだ。だとしたら、私があの人を恋して恋して恋し続けたならば、逢えないなんてことがあるだろうか。いや、そんなことはない。必ずあの人に逢えるに違いない。

「種しあれば」という確定したことをもとにして、自分の恋心という仮定の話を思う気持ち。それがしっかりと言葉として表現されていることに感動を覚えます。

このように、恋の歌を一つ選び、参考書と古語辞典を調べたり考えたりしていくのはとても楽しい活動です。書かれた「言葉」を調べていくことで表されている「意味」が絞り込まれていく。その感覚はパズルのようでもあります。

古語の活用を覚えると、歌のニュアンスまでを正確に、しかも論理的にとらえることができます。ぼんやりと「恋の歌だな」と思うのではなく、カメラのピントが合うように「作者が歌に託した気持ち」を見ることができる。なんてすてきなことでしょう。ですから、私がnoteのマガジンにまとめている「古今和歌集を読む」では、文法の簡単な解説を必ず載せるようにしているのです。

さて、私が挑戦したいと思っていることは「逢はざらめやも」という部分を読んだときに「現代語を介さずに意味を理解する感覚を養う」というものです。たとえば「ざら」を見たときに打消の気持ちになるのはできます。「め」も何とか。しかし今回「やも」は反語の気持ちで読めなかった。ですから、何度か「逢はざらめやも」を反語の感覚でとらえられるように繰り返して読みました。

自分で恋の歌を選び、品詞分解を行い、古語辞典を調べて簡単な解説を書く。そうするとその解説は私自身が読み返したときにたいへんわかりやすいものとなります。自分がわかるように書いたのだから当然です。ときどき読み返して「現代語を介さずに意味を理解することができるか」を自分でテストしようと心がけています。

古語はいったん覚えてもすぐに忘れてしまいます。でも、そんなことは気にしません。別に試験を受けるわけではなく、楽しみとして読んでいるからです。

結城浩「古今和歌集を読む」では、親しみやすい歌を選んで読んでいきます。やさしい解説付き。ちょっぴり優雅な言葉の時間。

あなたもいかがですか。



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結城浩のメールマガジン 2018年5月15日 Vol.320 より

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