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何のために生きるの?

質問1: 人生の目標は何ですか

結城先生の人生の目標は何ですか。
生きていると辛いことや悲しいこともありますが、何が生きがいですか。
結城浩のメールマガジン 2019年1月1日 Vol.353 より

回答1

ご質問ありがとうございます。

私は「長期的ビジョン」や「人生の目標」などをあまり深く考えない方なので「人生の目標」は何ですかと問われると「うーん」と考えてしまいます。でも「人生の目的」ならばわかっているつもりです。

人生の目的は「愛」です。

ここでいう「愛」は「恋愛」の意味ではなく、キリスト教的な意味での「愛」です。象徴的には「誰かのために命を与える」ということです。「私を生かすために生きる」のではなく「私の大切な人を生かすために生きる」ことが「愛」です。無理に一言でまとめるなら「与える人生」ともいえます。

具体的には、私の人生は、少なくとも「私の妻」を愛するためにあります。それから「私に関わる人たち」のために。特に「私の本に関わる人たち」のためにあります。私の命はそのためにあると私は思っています。

命とか言い出すと、大げさに聞こえますかね。

この世の命とは「時間」の別名です。自分に与えられている時間をどこに費やすか。何に費やすか。自分が時間を費やす場所こそが自分の命のありか、自分の愛のありかになるといえます。

生きていると、辛いことはあります。悲しいこともあります。でも、それらに対して抱く感情というのは、長い目で見れば過ぎ去っていくものです。私の感情は時間に依存します。ですから、永遠の前には屈します。

あえて比べるならば、感情よりも意志が大切です。感情も大切ですが、意志はもっと大事です。なぜなら、意志は未来を作るからです。「私が何を感じるか」は大事ですが「私はどうしたいか」の方が大事です。もちろんそれは「あえて比べるならば」ということです。決して感情はどうでもいいと主張しているわけではないのでご注意ください。

感情は過去が生むものです。過去に何か出来事があった。その出来事を思い出して感情が動かされます。過去は変えられません。だからこそ、苦しみます。過去はどうにも変えられないからです。

意志は未来を生むものです。こうしたい。こうしよう。うまく行くときも行かないときもある。しかし、未来を向くのは意味があるのです。

「人生の目標は何ですか」と問う人には二種類います。評論家か悩める人です。評論家はどうでもいいので、悩める人に向けて書きます。私には、人生の目標はわかりません。でも人生の目的はわかります。それは「愛」なのです。

妻か、友か、夫か、誰かはわかりません。でも、誰かのために命を与えること。それが人生の目的だと私は思います。「命」というのは、私にとっては「時間」の別名です。あなたにとって、あなたの命とは何でしょうか。

自分にとってかけがえのないもの、最も大事なものを、必要ならば喜んで捧げる。私はその行為に「愛」を見ます。そのようにありたいという意志に「愛」を見ます。大切なものを、見返りを求めずに与えること。大切なものを、見返りを求めず捧げること。そこに「愛」を見ます。

どんなに素晴らしいものでも、自分のみに帰すとき、それは腐ります。自分ひとりのものにしようとしたとき、急速に意味を失います。不思議なほどに。素晴らしいものは、他者に与えるときに初めて本当に輝くのです。不思議なことに。

この世で過ごす自分の時間には限りがあるという点に鍵があります。素晴らしいものを自分だけのものにしようとしても、言い換えるなら、自分の上に宝を積もうとしても、あっという間に朽ちてしまいます。自分に栄光を帰そうとしても、あっという間に腐ってしまいます。

実際の私が、ここで述べているような「愛」に生きていると豪語することはとうていできませんので、達成することができる「目標」として掲げることにはやや抵抗があります。しかし、このような生き方をしたい、このような「愛」に生きたいと願っていることは本当です。そういう意味で「目的」と表現しました。まあ、でもそれは細かいこだわりにすぎません。

私が思っているのはこうです。人生の目的は愛であるということ。愛とは命を他者に与えること。命とは私にとって時間であること。もっとも大切なものを自分のために使おうとすると腐り、意味を失うけれど、他者のために捧げるとき初めて輝くこと。

ご質問ありがとうございました。

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質問2: 自分のために生きてはいけないのか

結城先生の「人生の目標は何か」という文章を拝読させていただいて、大変参考になりました。

文章の中で「どんなに素晴らしいものでも、自分に帰すときにそれは腐ります。」と書かれていたのですが、この部分が自分にはものすごく心に引っ掛かってしまいました。

人は自分のために生きてはいけないでしょうか。

たとえば、数学がしたいという理由で、数学を勉強してはいけないのでしょうか。

回答2

ご質問ありがとうございます。

真に輝くものを求めたり、成果を喜んだり、自分が到達した高みを味わったり、自分の働きに対する報酬を喜ぶことは問題ありません。そして健全です。問題はそのような成果を喜ぶことから一歩進んで「だから自分は偉いのだ」と思うところにあります。「自分に栄光を帰す」とはそういう意味です。

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