みんなから好かれたい気持ちの裏側(人生を歩む)
あるとき「みんなから好かれたい気持ち」について考えていた。
みんなから好かれようとするときに起きること
みんなから好かれようとすると、何が起きるだろう。
すぐ思ったのは「みんなから好かれようとしても、本当に全員から好かれるわけではない」ということ。
それから「本気でみんなから好かれようとすると、特定の人から深く好かれることはなくなる」とも思った。
人間には相性があるし、好みもある。多様性もある。だから「みんなから好かれよう」というのは、いわば不可能にチャレンジしていることになる。不可能にチャレンジといえばかっこいいけど、まあ無謀なことをやっている。
「みんなから好かれよう」とすると、次の二つのどちらかの行動を選ぶことが多くなる。一つは「平均的な行動」。この人からも嫌われず、あの人からも嫌われたくない。この人からも好かれ、あの人からも好かれたい。その結果、無難なことだけをする。誰ともぶつからず、特記することがない行動のみを取る。でも「平均的な行動」で、深く好かれるだろうか。
もう一つは「矛盾した行動」。Aさんに接しているときにはAさんに好かれる行動を取り、Bさんに接しているときにはBさんに好かれる行動を取る。たとえ全体として矛盾していても構わない。どちらからも好かれようとして個別撃破を狙う。でも「矛盾した行動」で、深く好かれるだろうか。
「みんなから好かれよう」とするのは無謀なことであって、むしろ、波長の合う人にしっかりと応える行動を取り、合わない人とは適度な距離を保つくらいがいいのではないだろうか。などと思う。
しかしながら、そんな抑制の効いたことを考えるのは年寄りの発想かもしれないとも思う。みんなから好かれたい!自分は好かれるはず!という勢いでガンガン押しまくったっていいじゃん。その結果、孤立してしょぼーん……自己嫌悪となることがあっていいじゃん。そうだね、そうかもね……。
「みんなから好かれたい」気持ちは「誰からも嫌われたくない」気持ちと表裏一体だ
「みんなから好かれたい」気持ちは「誰からも嫌われたくない」気持ちと表裏一体だ。「誰か一人からでも嫌われてしまったら自分はおしまいだ」という気持ちでもある。
「みんなから好かれたい」気持ちは、実のところ「他者との関係」からではなく「自分自身との関係」に根っこがあるのかもしれない。
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