理解に関して他人と優劣を比較しない(学ぶときの心がけ)
数学を自分なりに楽しんでいて思うことがあります。それは「理解に関して、他人と優劣を比較するのはまったく無意味である」ということです。
人と比較するというのは、たとえば「あの人は難しい数学を理解しているけれど自分は初歩的な数学しか理解できない」や「あの人はささっとすぐに理解できるのに、自分はなかなか理解できない」ということ。このような比較は無意味です。
あるいは逆に「自分はこんなに難しいことでもすばやく理解できるのに、あいつはこんなに易しいことも理解できないのか」というもの。そのような比較は無意味です。
「無意味」というのはやや強い表現ですし、つい比較してしまうことに罪悪感を感じる必要はありません。でも、そのくらい強い表現で注意を喚起しておかないと、比較して落ち込んだり優越感を感じたりする危険性があると思います。
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理解を他人と比べるのではなく、自分が見ている対象のほうに目を向けたい。自分に目を向けるとしても、他人と比べた優劣ではなく、自分は何をどう理解しているのかに目を向けたい。たまたま自分の視界に入った誰かと比較して、一喜一憂することは無意味。結城はそのように思う。
数学を楽しむとき、それは時間や空間を越えた楽しみを味わっていることになる。何千年も前の人が考えたことを再発見したり、何千年も後の人も気付いて感動するだろうことに自分も感動する。自分と同じように、世界中のあちこちにいる数学愛好家はそれぞれの《自分の理解の最前線》で頭をひねっているのだ。
もちろんプロの数学者はそうも言ってられないのかもしれない。プロ野球選手が成績を気にするのと同じように。また、潜在的に競走を行なっている受験生もそうだ。厳密にいえば、すべての比較が無意味とはいえないだろう。
しかしながら、「他人が理解しているかどうか」は「自分が理解しているかどうか」と無関係であるのは確かだ。自分が理解していれば理解している。自分が理解していなければ理解していない。それがすべてだ。
《自分の理解の最前線》においては、例外なく全員がチャレンジを経験する。うまく行くこともあるけれど、なかなかうまく行かないこともある。なぜならまさにそれが《自分の理解の最前線》の証拠だから。
だから、できる限り、理解に関して他人と優劣を比較するのはやめにしたい。もっと大切なところに心と時間を注ぎたい。《自分の理解に関心を持つ》態度を保ち、《わかったふりをしない》態度を守り、自分の学びを進めていきたい。
後から自分の活動を振り返ったときに「毎日毎日、他人と自分を比べることだけに時間と労力を費やしていました。自分がいかに理解が遅いかという証拠集めに邁進していました。自分は何と愚かな行動を取っていたのでしょう」とならないようにしたい。本当にそう思う。そんな後悔はしたくない。
後から自分の活動を振り返ったときに「自分のなすべきことを少しずつ積み上げてきました。途中で何度も何度も駄目になり、ぜんぶ崩れてしまって最初からやり直しになったり、道に迷って横道にそれたりもしたけれど、自分の現状を素直に認め、軌道修正を繰り返して愚直に歩んできました」となりたい。そして、願わくは「ほんの少しだけど、理解が深まりました」と言いたい。
そのための第一歩は「理解に関して、他人と優劣を比較しないこと」にあるのではないか。
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結城は、そんなふうに思っています。
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