ネガティブなセルフブランディングの危険性(仕事の心がけ)
結城は本を書くのがメインの仕事であり、書評を書くことはほとんどありません。でも、本の解説や帯の文章などを頼まれることはたまにあります。
結城が書評を書くときの心がけは一つです。それは以下のように表現できます。
未読の人に対して、
結城にとって面白かった点を肯定的に伝えること
この心がけから導かれる結論の一つとして、書評のお仕事を引き受けるときには必ず、以下の点を確認するようにしています。
読後、もしもつまらない本だったときには、
書評を書くことを断るオプションを許してもらうこと
別の言い方をするならば、もしもつまらない本だったとしても「この本はつまらない本だった」という書評は書かないということになります。
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肯定的な書評しか書きたくないという理由はいくつかあります。
一つの理由は、作品に対して否定的な文章を書くというのは「楽」だからです。楽ならば仕事としてうれしいと思いがちですが、話はそれほど単純ではないと思います。作品に対して否定的な文章はすぐに「あら探し」のレベルに落ちてしまいがちで、書評の読後感がよくありません。読後感がよくない文章(書評)を結城の読者(結城が書いた書評の読者)に読ませたくないという気持ちが働きます。
もう一つの理由は、たとえ私にはつまらないと思える作品でも、その作品のファンがいる可能性があるからです。私自身の読み方で不用意に作品を否定してしまうのは、その作品のファンにとって気分のいいものではないでしょう。他人を不愉快にさせる可能性が見えているのに、それを越えてまで否定的な書評を書きたいとは思わないのです。
ここであわてて注釈を入れておきますが、いまは「結城自身が書評を書く場合」の話をしています。「結城の作品に対する書評」はまた別の話。結城の作品には肯定的な書評以外を書くなと言っているわけではありません(誰もそうは読んでいないと思いますが)。「結城の作品に対する書評」は、どんな形の書評であれ、私にとっては有益だと思っています。その書評を読むことで「なるほど、私が書いた文章は、こんなふうに読まれることがあるのだなあ」とわかるからです。
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ここからは少しトーンを変えて、これから世に出る若いクリエイタさん向けの文章になります。
ネットを眺めていると、作品を発表している若いクリエイタさんがたくさんいることがわかります。でもその中に「他の作品をこきおろす文章」を頻繁に書いている人もいることが少し気になっています。
そういうクリエイタの方に直接言ったりはしませんが、自分の発言や行動が数十年後に自分を苦しめる可能性に、少しでいいから心を向けてほしいなと思います。
自分の考えとは違う「嘘」を言えというのではありませんし、世に迎合した発言をしろというのでもありません。批判は悪といいたいのでもありません。ただ、
私が世界に訴えたいのは、こういうことなのか。
と自問してほしいといいたいのです。
あなたが世界に訴えたいのは「作家Aの作品aはくだらない」ということなのか。「クリエイタQの作品qは駄作だ」ということなのか。本当にそれを訴えたいのか。
公開の場で、他人の作品にやたらとダメ出しをしたくなるとき。
みんなが見ているところで、誰かの活動をボロクソに言いたくなるとき。
自問してほしいのです。
私は、クリエイタなのか。
それとも、
他人の作品をあれこれいうヒトなのか。
どちらなのか、ぜひ考えてください。
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クリエイタが、他人の作品を、公開の場で必要以上にけなすことはどんな意味を持つでしょうか。
多くのクリエイタは、自分や自分の作品を宣伝する必要があります。最近のキーワードでいえば「セルフブランディング」ですね。作品を積み重ねて、発表を積み重ねて、自分や自分の作品を多くの人に認知してもらう必要があります。
クリエイタが、他人の作品を、公開の場で必要以上にけなすことは「ネガティブなセルフブランディング」活動といえそうです。
そのような活動は、すぐに「炎上」するわけではありません。だから逆に恐いと思います。「この人は、他人の作品を否定してばかりいるクリエイタ」というキャンペーンを長期的に行っていることになかなか気付かないからです。
自戒を込めつつ、そんなことを思っています。
結城浩のメールマガジン 2017年8月22日 Vol.282 より
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