本を繰り返し読むということ(学ぶときの心がけ)
質問
私は、同じ本をめったに読みません。
結城先生は、同じ本を繰り返し読むことが多いというお話をされていたと思います。
どんな本をどれくらいの頻度で読むか、本を読み返した具体的な回数、買い直した本のようなエピソードをお聞きしたいです。
結城浩の「コミュニケーションの心がけ」2018年5月1日 Vol.318
回答
ご質問ありがとうございます。
そうですね、確かに私は同じ本を繰り返し読むことが多いようです。たぶん、大学時代くらいからそういう傾向が強くなったんじゃないかなあと思います。理由はよくわかりません。自分がおもしろいと思う本の傾向がわかってきたのかもしれませんし、これはおもしろいという本は繰り返し読めば読むほど味が出てくることを知ったからかもしれません。
高校時代にはフィリップ・ギルバート・ハマトンの『知的生活』を繰り返し読みました。
大学に入ってから、ピューリッツァ賞を取ったダグラス・ホフスタッターの『ゲーデル,エッシャー,バッハ』は数え切れないほど読みました。この本は『プログラマの数学』を書くときや、『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』を書く間接的なきっかけにもなったと思います。
『数学ガール/フェルマーの最終定理』を書こうとしているころは、山本芳彦『数論入門』をずっと読んでいました。
『聖書』は30年以上読み続けています。
考えてみますと「この本は三回読んだ」のように読み返した回数を覚えている本はほとんどありませんね。さらに考えてみますと、私は「読了」という概念をあまり重視していないようです。
私が繰り返し読むというときには、頭から通読するとは限りません。適当なページを開いてそこから数ページ読むというような繰り返しをすることもよくあります。一回通読してから、あちこち拾い読みを繰り返すという場合も。
Donald Knuth先生の『The Art of Computer Programming』のシリーズや『コンピュータの数学』も、数学的な内容がすべてわかっているわけではないのですが、繰り返し読んでいます。ほんとうに何年も掛けて、少しずつあちこちを理解しているという感じです。
そのように考えていきますと、私が繰り返し読む本というのは「わかりそうだけれど、まだ完全にはわかっていない本」のようですね。すぐに内容を理解しちゃった本や、さっぱり内容を理解できない本を繰り返し読むことはありません(あたりまえですけれど)。
繰り返し読む本のもう一つの類型は「扱っている題材の難易度の幅が広い本」ですね。つまり、とてもやさしくてあたりまえのことから、おもしろさはほの見えるけれどはっきりと全体はつかめないことまで、そんな幅広い内容が扱われている本。そういう本を繰り返し読むようです。もちろん、そういう本が好きなのです。
と、ここまで書いてきて思うのですが、結城自身が書く本には、私が繰り返し読む本と似た性質があります。
難易度の幅が広い本。
繰り返し読みたくなる本。特に、時間をおいて繰り返し読みたくなる本。
結城は、そういう本に強い関心を持っているようです。読む立場でも、書く立場でも、同じ種類の本に関心があるのです。当然のことなのかもしれませんが、おもしろいですね。
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結城はよく「結城さんの本は私にも理解できますか」という質問をいただきます。それはもちろん自然なことです。さっぱり理解できない本なら困りますからね。でもときどき「一度読むだけですべてを理解できる本」を期待している方がいて、「うーん、そういう方もいらっしゃるのだなあ」と驚くことがあります。
本は人と似ています。一度会っただけで、少し言葉を交わしただけで、それだけですべてを理解できるということは「まれ」ではないでしょうか。どこかに謎が残る。話していて「あれ?」と思うことがある。「この話題にはまだ奥がありそうだけれど、私はそのすべてをまだ理解してはいないな」と感じることがある。本であれ、人であれ、そのような「まだ理解していない部分」の存在は「魅力」の一つと呼べるのではないかと思います。
もちろん、わざと謎めいたミステリー気取りをするのはいただけませんが、多重的な、多面的な、多層的な深みを持つほどの豊かさは魅力にほかなりません。
「繰り返し読むに耐える本」に出会うこと。
それは、「魅力ある本」に出会うこととほぼ同義のように思うのです。
ご質問ありがとうございました。
結城浩はメールマガジンを毎週発行しています。