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学ぶ姿勢を生徒に伝える存在としての教師(教えるときの心がけ)

※全文を公開している「投げ銭」スタイルのノートです(結城メルマガVol.065より)

テストでバツをつけるのは難しいことだと思います。バツをつけられて生徒がやる気をなくすのも困りますが、その一方で明らかな誤りを指摘されなかったら、きちんと学びを進めることは難しくなってしまいます。生徒が納得するようなバツならたいへん良いけれど、納得できないバツならたいへん悪い効果を及ぼすでしょう。

テストを作るのは難しいものです。下手に作ると「これが正解」とは明確にいえない問題ができてしまいます。

 「これは正解(マル)」
 「これは誤り(バツ)」

と明確になる問題にするのは意外に難しいものです。

学ぶ立場なら、テストの結果がマルかバツかで一喜一憂するのは賢明ではありません。マルバツは単なる目安であって、「自分は本当に理解しているのか?」と自問し、自己の習得状況を知る手がかりとしてテストを扱うのが良いのです……とはいうものの、そのような学びを進められる人はすでに好成績でしょうけれど。きちんと学ぶことは難しいものです。

教える立場を考えてみると、もっと難しくなります。もしも生徒がマルとバツの意味を良く理解してくれているなら、そして、教師と生徒との間に信頼関係が成り立っているなら、何をどうテストしようとも大きな問題にはならないでしょうね。でも、もしも、教師が行うテストが生徒に対して、

 理由は関係ない。
 教師が言ったことだけが正解なのだ。

と圧力を掛けるものなら、大問題になります。本来「自分の学び方」を良い方向に軌道修正していくためのテストを、悪い方向に軌道修正してしまうために用いることになるからです。そのような「まちがった学び方を教える」ようなテストは、「まちがった知識を教える」こと以上に悪影響を与えるでしょう。

そのように考えを進めていくと、教師に求めたくなる態度というものが少し見えてきます。簡単にいえば、教師は、自分自身も学んでいる存在だということをよく理解し、そのことを生徒にきちんと伝えるのが良いのではないでしょうか。要するに、教師は「知識を伝える存在」というだけではなく、「学ぶ姿勢を生徒に伝える存在」でもあってほしいと思うのです。

そもそも「学ぶ姿勢を生徒に伝える存在」である教師は、生徒から信頼されている可能性も高そうです。もしそういう側面がまったくなく、単に知識を伝えることに終始している教師はWikipediaにも負けてしまうでしょう。

一人の教師がすべての知識を持つことは不可能ですし、たとえ多くの知識を持っていたとしても変化の激しい現代にあわせてアップデートし続けることは困難でしょう。最新の知識を直接生徒に伝えることではなく、どのような態度で「知」に向かおうとしているかを生徒に見せることが大切ではないでしょうか。

現代という時代は、情報技術が発達し、「仕事」というものも信じられないようなスピードで変化しています。今日存在した職業も五年先十年先に存在するかどうか。そんな時代にあって、本で学ぶのでもなく、動画で学ぶのでもなく、eラーニングで学ぶのでもなく、「生身の教師」から学ぶ意味はどこにあるのでしょう。

すぐに気づくのは、生徒と教師の「対話」の重要性です。

 ・生徒の「わからない」を拾い上げること
 ・生徒自身すら言語化できていない理解度を言語化し可視化すること

そのような高度な対話は、生身の教師でないと難しいでしょう。

考えてみますと、いわゆる学習能力の高い生徒というのは、そのような内的対話をうまく行える人ではないでしょうか。

 「自分はわかっていないようだ。どこがわかってないんだろうか?」
 「もしも自分が理解しているとしたら、どんな問題が解けてしかるべきだろうか?」

そのような問いを自分に投げることができる生徒は、自分一人で教師と生徒の一人二役ができ、自分自身と「対話」ができているのです。

そのような自分自身と対話ができる生徒は学習能力が極めて高い生徒でしょう。すべての生徒にそれを望むのは難しいとしても、

 「わたし、わかっていないようです」

という訴えを素直に表に出せる教室であってほしいと思います。「わかってないフラグ」を安心して立てることができ、立てても誰にも非難されない教室であってほしいと思います。

そして、教師。

生徒からの真摯な「わかっていません」という訴えに対して、適切な問いかけ・クイズ・テストを使って、どこになぜひっかかっているのかを解きほぐす存在——それが教師であってほしい。

もっとも、それは望みすぎなのかもしれませんが。

「わかっていません」という言葉で思い出すのが、「数学ガール」シリーズに登場する元気少女テトラちゃんです。

 「あたし、まだ《わかった感じ》がしません」

という発言は、まさに生徒の真摯な訴えになっています。そして、そのような発言に対峙する「僕」やミルカさんは、ある点において、理想的な教師を模しているともいえるでしょう。

「理想的な教師」と書いたのは、現実世界の教師には、物語世界よりもはるかに強い制約が課されているので、あれほど「きれいな授業」をすることは難しいと思われるからです。

「テストでバツをつけるのは難しいことだと思います」という一言から、導かれるままに書いてきました。このように文章として表現してみますと、結城自身が持っている「教えるということ」や「学ぶということ」の概念が少し明確になったように思います。

書きながら考える、考えを紡いでいくというのはとても気持ちのよいことですね。

最後に念のため。

以上の文章は誰かを個人的に非難するものではないことをお断りしておきます。現場で生身の生徒に対峙しておられる先生方に対して、結城は深い敬意を抱いているのです。

以上「学ぶ姿勢を生徒に伝える存在としての教師」という小文でした。お読みいただきありがとうございます。

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Photo by webtreats.
https://www.flickr.com/photos/webtreatsetc/4155634227/

この文章は、結城浩が毎週発行しているメールマガジンに掲載されたものです。
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