さびしさということ(思い出の日記)
※全文を公開している「投げ銭」スタイルのノートです。
午前中は教会。イエスさまの誕生を記念する礼拝。
「さびしさ」ということについて、自動書記的に書いてみる。推敲もせず。思いつくままに。
どんな人でも、さびしさを感じるときがある。どんなにお金持ちでも、貧乏でも。たくさんの友達がいても、いなくても。年齢にかかわらず。季節によらず。
すぐにさびしさを紛らわせることができる場合もあるし、そうできない場合ももちろんある。軽いさびしさを感じるときもあれば、底知れぬほどの深いさびしさに悩む場合もあるだろう。まあ、要するに、いろいろある。
さびしいのは誰だっていやなものだし、たのしいのは誰だってうれしい。それはトートロジーに近い。でも、ときどき、結城は《たとえいやだとしても、それが大切な意味を持つ場合がある》と思ったりする。さびしさを通り抜けてはじめて知る何かがある。あるいは、さびしさの中でしか発見できない何かがある。誰もがいやがり、先を争うようにして抜け出したがる――のだけれど、そこで、ぐっと、こらえて、もがくようにして――それでなければ得られない何かがある。結城はときどきそんなことを思う。
イエスさまが祈るとき、しばしば山の上にいったり、荒野にいったりする。群衆から離れ、喧噪から離れ、たったひとりの「さびしい」ところに行く。そして祈る。誰しも、そういう時が必要なのかもしれない。
ことさらにさびしい場所に居続けるのは不健康だと思う。けれど、ひととき、表舞台から姿を消し、じっと「こもる」時も必要なのではないかな。そこで、自分一人で過ごす――いやいや、そうではなく。ほんとうの自分。裸の自分になって、神さまと語り合う(もしくは本音を神さまにぶつける)。それは、とてもとても大切な時なのではあるまいか。
そんなことを思う、日曜の夜。
* * *
※2007年12月23日の「結城浩の日記」から。
http://www.hyuki.com/d/
※結城浩はメールマガジンを毎週発行しています。あなたも購読してみませんか。
http://www.hyuki.com/mm/
※Photo by webtreats.
https://www.flickr.com/photos/webtreatsetc/4185326903/
※以降に文章はありません。「投げ銭」感謝。
ここから先は
¥ 200
あなたからいただいたチップは、本やコンピュータを買い、多様なWebサービスに触れ、結城が知見を深める費用として感謝しつつ使わせていただきます! アマゾンに書評を書いてくださることも大きな支援になりますので、よろしくお願いします。 https://amzn.to/2GRquOl