今日しか、語れない、自分しか、語れない、言葉を語れ。(日々の日記)
※全文を公開している「投げ銭」スタイルのノートです。
自動書記って知ってますか。
テキストエディタを立ち上げて、思いつく言葉を書いていく文章の書き方です。
なぜ「自動」書記かというと、書かれていく言葉があたかも自動的に手から出力されていくような気持ちになるから。だから、自動書記。
そういうのが苦手な人もよくいます。自分の恥ずかしい文章をひとさまに見せたくないと思う人(パターン1)。そして、どうせ人に見せるなら何度も何度も推敲して最高の文章にしなければいけないと思う人(パターン2)。どちらも自動書記には向かない。
もともと、向く向かないの問題じゃないんですけどね。でももともと文章は、なぜか心の残滓や、恥ずかしくて人に言えないようなあれこれとどうしようもなく結びついているために、妙に身構えたり、かっこつけたくなる気持ちもわかります。
ところで結城はどうかというと、もう身構える年齢でもかっこつける年齢でもない。自分の書いた文章がどんなかたちであれ、ひとさまに読んでいただけるならありがたいと思うお年頃。なのでこうやって、エディタを立ち上げて、ぱたぱたと書いている次第です。
いちおう自動書記にも制約(constraint or restriction)があって、それは「使うのはバックスペースのみ」という制約。つまり、カット&ペーストや大規模な編集はやらないよ、という制約ですね。さすがにすべての編集を否定するほどストイックなのもどうかと思うので、まあ、バックスペースくらいはいいかな。みたいな。
さて、ここまでで肩があったまってきたので、本題に入りましょうかね。今日は何を書こうかというと、自意識の問題。特に若い時代の自意識の問題について。
自分の中学・高校時代を思い返すと、もう少し「自意識」をコントロールできたらな、と思うことが多々あるわけです。無茶なことは承知なのですが。あのとき、もうちょっと積極的にできたら、とか、あのとき、もうちょっと自分を抑えられたら、とかね。
でもそんなことは、あとから考えるからそうなのであって、実際には無理な話です。だとしたら、自分の過去を否定するのではなく、自分の過去をきちんと飾り付けて、振り返ったときに「あの時代はよかった」といえるようにすれば……いや、それも違うでしょう。そういうことをしたがる人は多いけれど、それは違う。自分の過去は、厳然たる過去は、存在するのでそれをむやみに否定するのはどうかと思う。それはいい。でも、自分の過去だからといって賛美するのも違うでしょう。そんなふうに思う。
それから、自分の過去ばかりを見ている時点でかなり不健全だとも思う。つまり、自分の関心は自分にしかないかという不健全さですね。健全な大人なら、自分を見るのもあるけれど、まわりの人をみて、まわりの人を受け止めて、ちゃんとまわりにはげましや、応援や、アドバイスなどをしたほうがいいと思うのですよ。アドバイス? たとえ他の人が聞かないとしても、年長者としていうべきことは言っておく、という意味ね。それを聞く聞かないの選択は相手にあるわけだし。
月曜日(結城メルマガの執筆)や、木曜日(Web連載の執筆)でハイになっていると、ついついTwitterで連ツイしたり、こんなふうにnoteに長い文章を書きたくなるものです。これってなんでしょうね。ライターズ・ハイというか、文章を書いていて勢いついたからしょうがないというか。あとから読み返すといささか恥ずかしくなる部分もあるのですけれど、でも、意外に自分で読み返しても面白かったりして、あんたはどんだけ自分が好きなんだよという反論歓迎。
まじめな話をしよう。若いときの学びと、年くってからの学びはまったく意味が違う。これを若い人に伝えるのはとても難しい。年寄りはみんな共感してくれるけれど、結城が共感してほしいのは年寄りではなく若者だ。
何がどう違うかというと、若いときの学びは何でも益になる。無駄なことも、有益なことも、時間を使うことも、使わないことも、すべてが益になる。要点は「若さを生かす」ことにある。そもそも若い人は能力が高い(生物学的に)。だから、どんなことをやったとしても、記憶に残り、経験に生かせる。しかし、年齢を重ねると、それは難しくなる。有益なことを選ばないとつらくなってくる(といっても、共感を得られるのは年寄りだけだけれどね)。
結城が若い人をやみくもに応援したくなるのはそのためだ。あなたがもっている時間、あなたがもっているチャンス、あなたがもっている能力、あなたがもっている環境。それは(あなたがいくらしょうもないと思っていても)大きな意味を持っているんですよ。そんなふうに言いたい。
そして、応援したい。失敗してもいい。それは大きなスパンで見たら、決して失敗じゃない。思い切ってやってごらん。思い切って試してごらん。恥をかいてもいい。つらい思いを抱いてもいい。五年後、十年後、絶対に「ああ、あれは無駄じゃなかった」と思うから。保証します。ほんとです。まずは、思い切ってやってみること。
それと共に、若い人へのメッセージとしては、あなたよりも年上の人に「ほんのちょっぴりのリスペクト」を持って欲しい。それは年寄りのためにではなく、あなた自身のために。それから、あなたよりも年下の人に「ほんのちょっぴりの励まし」を与えて欲しい。それは若輩者のためにではなく、あなた自身のために。
これはレトリックではなく、あなた自身が年長者になったときに気付くのだけれど、まあそれは、いってもせんないことだから言わないでおこう。
とにかく若い人。思い切ってやりましょう。自意識が時にじゃまをするのはよくわかる。ローカルな人間関係がうざいのもよくわかる。あいつさえいなければ、こんな条件がなければ、そういわれさえしなければ……というようなあれやこれやがうずまくのもよくわかる。でもね。それはね。どんな時代でも、どんな世代にもあることなんですよ。
自分を応援してくれる人しかいない状況、そんな状況はありません。自分に有利な条件がそろうとき、そんなときはありません。やるきをそぐ言葉がおそってこない環境、そんな環境はないのです。
どんな状況でも、どんなときでも、どんな環境でも。「私はこれをやろう」「これが大事なことだ」「こうでなきゃいけない」……そういう(半分思い込みかもしれないけれど)個人の「意志」が問われるのです。
あなたは、どんな意志を持っていますか。
あなたは、どんな一歩を進めようとしていますか。
シンプルに自分に問え。
あなたは、貴重なこの人生で、どんな一歩を踏み出そうとしているのか。
障害はあるさ。妨害もあるさ。世間体もあるさ。不利な条件なんてたっぷりあるさ。
でも。
あなたの残り時間は限られている。
その時間をどう使うかは、あなたにゆだねられている。
「ゆだねる」という言葉を知っていますか。漢字では「委ねる」と書きます。
あなたは、自分に何が「ゆだねられているか」を知っていますか。自覚していますか。
あなたは自分の裁量で動かせるものをたくさん持っているはず。それがあなたに「ゆだねられたもの」です。
それを動かすのは今。動かせるのは、いつも、今。
そうなんですよ。よくよく考えてみると、自分には「ゆだねられたもの」がある。そして、よく考えてみると、自分にできることはたくさんある。自分にしかできないこと、いまの自分にしかできないことがたくさんある。
結城は、あなたに、そのことを気付いてほしい。
時間を無駄にしないでほしい。自分にゆだねられた時間を無駄にしないでほしい。
それは限られている。
今日、この「自動書記」で結城があなたに伝えたかったことはこれです。
聞こえた? 伝わった?
ならよろしい。結城は「あなた」に伝えたかったんだ。
今日という特別の日に。
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