あなたは、どうなったら幸せ?(日々の日記)
ふと、
“Happiness lies in contentment.”
という言葉を思い出しました。
“Happiness lies in contentment. ”という言い回しは、高校時代に英語で学んだ格言(ことわざ)の一種です。受験勉強のかいあって(?)、ときどき思い出します。
日本語に訳したらどうなるでしょう。直訳に近い表現をするなら、
「幸せとは満たされているところにあり」
となるでしょうか。もうちょっと直接的に訳すと、
「幸福は満足にあり」
という感じ。受験の時に覚えたのはもっとことわざ調になっていて、
「足ることを知るは幸い」
という表現でした。いずれにしても、
“Happiness lies in contentment. ”
は、単純で素朴だけれど、大切なことだと思います。
* * *
どんな人も、幸福を求めます。
広い意味での「幸福」を求めない人はほとんどいないでしょう。
異性を求めて、知識を求めて、財産を求めて、名誉を求めて、社会貢献を求めて、家族の健康を求めて……そのように私たちは多種多様のものを求めますが、それらはすべて、
「……という形の幸福を求めている」
といえそうです。
ところで、どんなにすてきな品物を手にしても、すばらしい条件や環境の中に身を置いたとしても、もしもその品物や条件や環境に対して、
「自分は満足できない」
と感じるなら、それは幸福とは言い難い状態でしょう。
“Happiness lies in contentment. ”
「幸福は満足にあり」というなら、対偶をとれば「不満足のままでは幸福とはいえない」ということになります。
* * *
ときどき「私は不幸である」と主張し続ける人がいます。私は不幸である。私は不幸せである。私は不遇である。環境が変わっても、時代が過ぎても
「とはいっても、私は不幸である」
と言い続ける人がいます。
もしも自分がそういう気分に陥ってしまったなら、こんな問いかけがあり得るでしょう。
「私はいったい、どういう状態になったら幸せなのだろうか」
という問いかけです。もちろんこれを、
「私はどうなったら満足するのか」
と言い換えてもかまいません。
* * *
何十年も前の話。職場に、いつも不満を言ってる知人がいました。確かに、その人が言う不満は、すべて正当な理由がありました。その人の主張を聞く限り、その人はたくさんの不遇な目にあい、
いつも満たされない思いを抱き続けてきたのです。
でも、その人の不満は確かに正当ではあるのですが、どうも引っかかる点もありました。それは、
「この人は、いったいどういう状態になったら、満足するのだろう」
と思えたからです。
その人が訴えていた職場の不満点が、あるとき解決したことがありました。でもその人は、解決した点にはもうあまり関心を向けず、「次の不満点」に意識を向けることにしたようでした。
その姿はまるで、
「自分の不満は解決してはならないのだ」
と主張しているように見えました。いうならば、
「誰かを非難することが可能な立場」
を失うのを恐れているかのように。
その人のことを、ときどき思い出します。
* * *
また昔の知り合いに、こんな人がいました。
満足してしまうと自分の進歩が止まりそうだから、こわくて満足できない。
という人です。その気持ちはわからないわけではありませんが、自分の「モデル化」が、いささかシンプルすぎないか? とも思います。
「幸福は満足にあり」と考えるのは妥当でしょう。またその一方で「不満があるところに進歩あり(必要は発明の母)」という考え方もあります。
それなら、両方のいいとこ取りをしちゃだめだろうか、などと単純な私は考えます。自分の状態や得たものにまずは満足し、その上で「さて」と次の一歩を考えるのがいいのではないでしょうか。
それは、自分の状態を「幸福」か「不幸」か、のように固定的に考えるのではない態度ともいえます。
良いことがあったら、その点については満足し、十分に幸福を味わう。享受する。
そして次の一歩として、不満点や改善すべき点を見つけ出し、それに向けて努力なり改善活動なりをする。
* * *
どんなときでも「まあいいや」というのも、どんなときでも「これじゃだめだ」というのも、現実を正しく評価していないように思います。
「自分は常に百パーセントの不幸にいる」というのも、「自分は常に百パーセントの幸福にいる」というのも、現実を見ていないのです。
言うなれば、それは、自分の幻想の中に生きる態度です。正しく評価しようと試みるとき、ほぼ確実に、いいところとよくないところの両方が見つかるものです。片方しか見えてないとしたら、何かが変です。
自分の幻想の中に生きていると、「不幸だ」と感じているよりも、もっと大きな不幸を避けられないかもしれません。「幸福だ」と感じているよりも、もっと大きな幸福を逃すかもしれません。
「こんな自分はもうだめだ」という百パーセントの不幸は認識がまちがっていますし、「自分はこれでもう大丈夫」という百パーセントの幸福も認識がまちがっているでしょう。
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“Happiness lies in contentment. ”
という言い回しから、そんなことを考えていました。
あなたは、どんなことを思いますか。
結城浩の「コミュニケーションの心がけ」2017年1月31日 Vol.253 より
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