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自分の文章を読んで嫌悪感を抱いてしまうのをどうしたらいいか(文章を書く心がけ)

質問

はじめまして。いつもツイッターなどで拝見しております。先生の、信仰と思慮の深さあふれる文章に憧れております。

私も、書くことや言葉について知ることに関心があります。しかし、自分が書いた文章を後日読みますと、「つたなさ」や「つまらなさ」だけではなく「自意識の過剰さ」を強烈に感じてしまい、生理的に嫌悪感を持ってしまいます。そのため継続的に文章を書くことができず、結果的に進歩しません。

漠然とした質問でもうしわけありませんが、この状況を変えるためにはどのように心がければいいでしょうか。

結城浩のメールマガジン 2018年5月22日 Vol.321 より

回答

ご質問ありがとうございます。

あなたが感じるお気持ちと完全に同じものではないと思いますが、私もよく感じます。以下、順序立てて話してみます。

結城は日々文章を書いていますが、文章を書いた直後に「自分は、なんと《あたりまえのこと》しか書けないんだろうか」とがっかりすることが非常によくあります。「結城メルマガ」を書いている月曜日やWeb連載を書いている木曜日、その夜は軽く気持ちがへこんでいることがよくあります。

毎週毎週同じようにへこみますので「こういう気持ちはいつものことなのだから、あまりへこまないようにしよう」と自分に言い聞かせるほど。私が毎週感じているその気持ちは、あなたの質問中にあった「つたなさ」や「つまらなさ」とやや似ている気持ちではないかと想像しています。

さて、あなたがいう「自意識の過剰さ」について考えてみます。結城自身は自分の文章を読んだときに「自意識の過剰さ」を感じるかどうか。

確かに私の場合も、自分の書いた文章を読んで「自意識の過剰さ」を感じることはよくあります。「自意識の過剰さ」というよりも、より正確には「自分に対する強烈な関心」といえるかもしれませんね。自分の文章から「ああ、この著者(結城)は自分に強烈な関心を持っているなあ」と感じます。

ただ、私はそのように感じつつも、そこに嫌悪感をおぼえることはないようです。

たぶん私は、ナルシストなのだと思います。自分に酔うようにして文章に書くことがとても好きなのでしょう。自分の執筆のようすを自己分析するときにそのように思います。ナルシストというと語弊がありますが、のめりこむように文章を書くということです。

そのような、自意識過剰で自分に関心のある文章を読んで嫌悪感をおぼえないのはなぜかを考えてみます。

きっと私は自分自身のことを好きなのです。

私は自分にたいそう関心を持っています。自分は何が好きか、何に興味があるか、どのようにものごとをとらえるか、どのように表現するか、そういった自分の活動ひとつひとつに関心があるのです。ですから、自分の中身がどろどろと出ている文章であっても嫌悪感をおぼえないのでしょう。

自分が書いた文章を読みながら私は「私にはこんなところもあったのか!私はこんなふうに考えるのか!」のように発見があるのを楽しんでいます。私は自分のことが好きで、自分に深く関わることがみな好きで、だから嫌悪感を抱かないのです。

便宜上「ナルシスト」と表現しましたが、私は自分自身を他者に対して「見せびらかしたい」という気持ちはあまりありません。私自身にも注目してほしくはないです。その代わりに、自分が作ったもの、書いたものに対しては注目をしてほしいし、見て欲しい。そういう意識が強いようです。

自己嫌悪を感じない理由について、もう少し書いていきたいと思います。

私は「自分から切り離された存在としての文章」を産み出すのが好き。ある時点で私が感じたことや考えたことを形にするのが好き。できるだけうまく形にしたい。そして、形になった文章を人に読んで欲しい。

しかし、そうやって形にした「文章」は「私自身」ではない。

その文章は私のことをよく書き表しているけれど、私自身ではない。それが「自分から切り離された存在としての文章」ということの意味です。

うーん、うまく伝わっていますかね。

たとえ話をしましょう。

子供が、大空を見上げて珍しい形の雲を発見したとき、大人の手をひっぱって、こう叫びます。「ほらほら!あの雲、見て見て!まるで、くじらさんみたい!」私がいま言いたいのはそういう感覚のことです。

結城は、自分の心の中にある小宇宙で、いろんな「くじらさん」を発見します。そして「くじらさん」を取り出して文章という形にします。そして、いろんな人に「ほらほら!見て見て!」という。私自身と、私が書いた文章と、私が伝えたい相手との関係はそういうふうになっています。

子供と雲が離れているように、私と文章も離れている。雲は子供じゃないし、文章も私ではない。でもその雲を発見し「くじらさん」と表現したのはその子供。それと同じように、私の文章を書いたのは他ならぬ私です。

私は自分の文章をいっしょうけんめいに書きます。でも、いったん書いた後は「どこかの誰かが書いた文章」という気持ちで読み返します。そして「おもしろい」とか「ここはこうした方がいいな」と他人事のように読み返して推敲します。

私はいま、あなたが文章を読んで感じる「自己嫌悪」を結城が感じない理由を説明しているつもりです。文章は私が書いたものだけど、私自身ではない。だから文章にあふれているものを見ても、私は「自己」を「嫌悪」しない。そういう説明をしているつもりです。

ここまでで二つの点を書いてきました。

  • 結城は、自分が好きなので、自分に関わることが書かれている文章を読んでも嫌悪感を抱かない。

  • 結城は、自分と文章そのものを分離して認識しているので、嫌悪感を抱かない。

さてここで、最初の「月曜日と木曜日にへこむ結城」という話につながります。というのは、ほとんどの場合、一日過ぎると気分は一転して「火曜日と金曜日のゴキゲンになる結城」になるからです。一日過ぎてゴキゲンになるのは、文章を読み返して、ああここに楽しい「くじらさん」がいる!と感じるからなのでしょう。

ようやく「この状況を変えるためにはどのように心がければいいでしょうか」というあなたのご質問に答えるところまで来ました。「自分自身を好きになってみる」もしくは「自分自身と文章を切り離してみる」というのはどうでしょうか。前者もいいですけれど、後者は比較的容易に実現できます。あなたは文章ではないし、文章はあなたではない。もっと文章をつきはなして「どこかの誰かが書いたもの」として扱ってみてはどうでしょうか。

ここまで長く書いてきた割には、あなたの質問への回答にはなっていないような気もしてきました。お役に立てなくてごめんなさい。でも、結城にとってはあなたの質問は非常に有益でした。自分と自分の文章の距離感に対して「なるほど」という発見があったからです。あなたの質問を通して、私はまた新たな「くじらさん」を発見したのです!

ご質問ありがとうございました。


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