『数学ガール』の作業ログから(本を書く心がけ)
※全文を公開している「投げ銭」スタイルのノートです。
こんにちは、結城浩です。
「本を書く心がけ」のコーナーでは、私がこれまでの書籍執筆の経験から学んだことを書いていこうと思います。
今回は、「数学ガール」シリーズの第一作『数学ガール』を書いているときの作業ログ、特にもっとも初期のもの(2006年4月)から紹介・解説しようと思います。
●どんな内容を盛り込むか
執筆の「作業ログ」からの抜粋をご紹介します。
2006-04-27 17:32:19
何を書こうか。
回転が持つ二面性を描く。
微分と差分、離散と連続を対にして描く。
母関数の解説をフィボナッチ数列を例にして。
相加相乗平均の関係と等号成立の条件、実数の二乗、変数の使用。
コンボリューションとカタラン数について。
調和数、∀、∃、極限、無限大について。
ここで私は『数学ガール』に盛り込む項目を検討しています。いまから書く本の中に、どんな題材を入れるかを考えているわけです。
ここではまだ、どの題材をどの章に書くかまでは考えていません。扱いたいなと思っている題材をただ羅列しているだけです。また、この時点で、題材のすべてに私が精通しているわけでもありません。私はただ、
・こういう題材を書きたいな
・この流れだとこういう題材も必要かな
・この題材とこの題材はいっしょに書きたいな
という案を自分で作り、それを作業ログにどんどん書いているだけです。
こういう検討は、自分の頭の中だけでやってはうまくいきません。頭の外に出して、つまり何かに書き出して検討した方がうまくいきます。私の場合には、テキストエディタを使います。テキストエディタに向かい、考えていることをどんどん書きます。書けなくなったら読み返し、読み返しては書き、というのを繰り返します。どんな書き方をしてもいいのですが、必ず「日付」は書くようにしています。
私が題材を選ぶときには、自分が精通しているものだけを選ぶことはありません。自分ががんばって勉強すればきっと書けそうだな、というあたりの難易度の題材を見つけてきて、それを使うことが多いですね。そのような行動によって、のちのち「がんばって勉強する」というはめに陥って苦労することになるのですが、それはさておき。
なぜ「がんばって勉強すればきっと書けそう」という難易度を選ぶかというと、一言でいってそれが楽しいからです。すでによく知っていることだけで本を書くのはつまらないと思っています。書いているときに自分自身で「なるほど!そういうことか!」と思わず叫ぶような驚きや感動がほしいのです。『数学ガール』のような物語の場合には、その私自身の驚きや感動がそのまま作品に生かされるという効果もあります。
ここで紹介した作業ログはほんの一部です。実際には上のような一覧を何セットも作って考えています。
●難易度の調整とキャラクターの役割
さらに『数学ガール』の作業ログから抜粋します。
2006-04-28 16:35:01
全体的に難しくなりすぎる予感がする。
テトラちゃんにもっと前に出てもらい、がんばってもらおう。
帰納法、背理法、Σと∫の基本。
「数式を読む」ということをきちんと説明する。
各章からどういう応用が広がるかも示す。
もう少し易しいところを充実させるほうがよいと思う。
いまのままでは盛り込みすぎだろう。
学校の季節に合わせて物語を推移させていこう。
そして、その中では、
・やさしいところをテトラちゃんが担当する。
・テトラちゃんと僕がきちんと会話をする。
・ミルカさんは、僕をしっかり驚かす。
という要素を盛り込む必要があると思う。
作業ログのこの部分では、書こうとしている『数学ガール』の難易度を調整しています。「テトラちゃん」というのは『数学ガール』に出てくるヒロインの一人で、主人公の「僕」から数学を教わる立場の女の子です。ここで「テトラちゃんにがんばってもらおう」というのは、読者の代わりとなって「あたしにはわかりません」という主張を物語の中でしてもらおう、というほどの意味です。
テトラちゃんが、読者の代わりに「わかりません」と主張すると、他の登場人物が彼女に対して、よりていねいに説明することになります。そしてそれは、読者にとっての難易度が自然に下がる効果があります。
作業ログに「いまのままでは盛り込みすぎ」と書いてありました。章の構成(章立てと呼びます)を検討するときには、つい、あれも書きたい、これも書きたいと思ってしまいます。しかし、たくさんの内容を一冊に盛り込みすぎると失敗します。なぜなら、一つ一つの項目の掘り下げ方が浅くなってしまい、読者が読んだときの満足度が下がるからです。
テキストを読んだときに自分の理解が深まると、読者の満足度は上がります。ですから、一つ一つの項目をきちんと掘り下げ、読者の納得のいくレベルまで理解してもらう必要があるのです。
ていねいに説明すると難易度は下がり、理解が深まります。そして、理解が深まれば満足度は上がります。しかし、ていねいに説明するためには文章量が多くなります。文章量が多くなると読み通すのが大変になりますから、満足度は逆に下がります。なかなか難しいものですね。
では、ていねいに説明しながらも文章量を少なくするにはどうしたらいいでしょう?
そのためには、取り扱う題材を厳選しなくてはいけません。書きたいことを全部書くのではなく、本当に必要なものを厳しく選んで書くことが大事になります。当たり前のことですが、「何を書くか」だけではなく「何を書かないか」の検討も大事なのですね。
さて、作業ログではさらに、テトラちゃん・「僕」・ミルカさんという三人の立ち位置についても検討しています。実際、読者さんからも、この三人の掛け合いのおかげで数学がわかりやすくなっているという評判をいただいていますので、ここでの検討が作品に生きたのだなと思います。
ここまで書いていて気付いたのですが、私の作業ログというのは、厳密な意味では「作業ログ」ではないですね。なんというか「雑多なメモ書き」という方が正確かもしれません。何しろ思いついたことをすべて書こうとしているのですから。
●まとめ
ということで――
今回の「本を書く心がけ」のコーナーでは、『数学ガール』の作業ログを題材にして、
・どんな内容を盛り込むか
・難易度の調整とキャラクターの役割
という話題をお送りしました。
次回もどうぞお楽しみに!
(Photo by Rui Fernandes. https://www.flickr.com/photos/ruifernandes/4930218619/)
このノートは「結城メルマガ」Vol.002の内容を編集したものです。
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