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試験について思うこと(教えるときの心がけ)

※全文を公開している「投げ銭」スタイルのノートです(結城メルマガVol.124より)

ある数学者の先生が「試験は実施せず単位は自己申告」という案を書いておられた。つまり、学期の終わりに、

 私は、この科目の単位を得るのに値する知識・技能・能力を身につけた

と自分で判断し自己申告する。その自己申告に従って単位を与える。そういうシステムはどうかという話である。こういうシステムにすれば、試験も採点も実施する必要がなくなる。

結城自身はこのような自己申告システムはすばらしいと思う。たとえば数学などの場合、自分が講義内容を理解しているか、教師が話している内容を理解しているかは、自分でかなり判断できるように思う。

登場する概念について「その定義は何か」と自問自答すれば、自分が定義を理解しているかどうかはわかる。確認は本を見ればできる。

数学の問題の多くは「この命題を証明せよ」になるが、ノートに自分で書いてみれば自分でテストできる。

多くの場合、数学の試験を受ける前に、自分でその単位を得るにふさわしい段階まで達しているかは、本人がわかっているのではないだろうか。

 * * *

もちろん、ここまでの話には大前提がある。それは性善説に立っているということ。言い換えると「自分では理解していないのに、単位ほしさに嘘の申告をする」という危険性があるということ。

でも、素朴に考えてみる。そのような嘘の申告をした学生はどんな得があるか。うまうま単位を得てしまうという得がある。確かに。でも学生はその科目の理解はしていない。それは学生にとって得なんだろうか。

そこまで考えてくると、試験の有無や単位のあり方というのは、大学や教育の根幹にも関わってくると気付く。つまり、学生はある知識や技能を得るために学んでいるのか、単位を得るために学んでいるのかという話だ。教育は何のためにあるのか。

 * * *

ところで、試験を行わず自己申告で単位を付与するシステムは、「真摯で自己評価が厳しい学生」にとっては厳しすぎるシステムになる可能性がある。つまり、十分に知識や技能を身につけているにも関わらず、本人の自己評価が厳しいために「いや、私はまだ単位を得るまでには達していない」と思ってしまうという危険性がある。

結城が自分のことを真摯だと言いたいわけではないけれど、実は自分がそれに近い事態になったことがある。大学時代、とある演習の科目があった。その教官の科目は単位を取るのが容易(いわゆるホトケの教官)だったが、学生のレベルのバラツキが大きすぎたため通常のペーパーテストは実施しなかった。その代わりに自己申告で「自分のレベルはこのくらいです」という評価をさせ、それで成績をつけようとした。

私は(学生当時)自己評価が厳しかったので、自己申告も非常に辛口に行い、あやうく単位を落としそうになったことがある(さいわい成績発表前に教官が気付いて救済された)。

 * * *

結城は教師ではないから試験問題を作ったり、それを実施したりということはない。ただ、書籍の中で問題を出すことはある。

そこで大事なのは「何のために問題を出すか」を明確にすることだと思っている。目的の明確化である。書籍の中で問題を出すときの最も大きな目的の一つは、

 「読者が理解したかどうかを確認するため」

である。文章をさらさらと読んだだけでは「わかった気」になるけれど、実際にわかっているかどうかを確認するのは難しい。

だから、読者はそこにある問題を解いて理解を確認する(あるいは、自分の誤解を発見する)。ということになる。理解を確認できれば(あるいは誤解を発見して正すことができれば)、読者はより満足度の高い読書体験を得ることができる。

ということは、その目的を達成するためには、

 「読者が解きたくなるような問題を出す」

という必要がある。易しすぎても、難しすぎてもだめ。望ましいのは、

 ・いかにもやさしくてすぐに解けそう
 ・でも解いているうちに自分の理解の不正確さがわかる
 ・さらに解いた後の解答から新たな世界が広がる

という問題である。少なくとも結城はそう思っている(自分の本でいつもそうできているわけではないけれど)。

 * * *

試験が好きな人は少ない。たとえば学校の授業が始まるとき、教師が

 「これからテストをします」

といってペーパーを配り始めたら、生徒は、

 「えー!」

と声を上げる。その状況で「しめしめ、自分の理解を確認するチャンスだぞ」などと思う生徒は、極めてまれである。

教師は、ペーパーを配りながら、

 「難しい問題じゃないから」
 「ちょっとした確認テストだよ」
 「成績をつけるわけじゃありません」

などと言い訳のようなことをつぶやくかもしれない。

よく考えるとそれも何だか変な話である。教育って何だろう、学ぶって何だろうと考えさせられる。

知識や技能を身につけるためには、身についているかどうかの確認は必要。

その確認のための試験やテストも必要。

でも、試験やテストを受けるのはいや。

ということは……知識や技能を身につけたくないということなのだろうか。

特に結論はない。

 * * *

たかが試験、されど試験。

つきつめて考えていくと、教えることや学ぶことの本質に触れるような気がしてくる。特に、学ぶことに対する「態度」の本質に。

 * * *

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結城浩です。はげまされるのはとってもうれしい!
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本を書いて生活しています。著書は『数学ガール』『プログラマの数学』『数学文章作法』『暗号技術入門』など多数。詳しい活動内容は https://mm.hyuki.net/n/n5f00c9cd281c をご覧ください。2014年度の日本数学会出版賞を受賞しました。

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