次に書く本を考えているときのこと(思い出の日記)
※全文を公開している「投げ銭」スタイルのノートです。
次に書く本についてあれこれと考えて、楽しい時間を過ごしています。
本の校正のときは、やることがはっきりしています。原稿と向かい合うしかありません。ひたすらひたすら読む。長門結城的な毎日。
H.Yuki> また図書館に
でも、次に書く本を考えているときは、モードがずいぶん違います。自分の心をとにかく広く広く広げる。遠くの地平線のその向こうまで見るような気持ちで、自分の四方を見渡す。自分の両手がまるで大きな大きなコンパスになったような心持ちで、ぐるーりと巨大な円を描く。「よーし、ここまでは届くかなあ。いや、もっと行けないかな?」などと考えつつ。
自分が、現在の段階で、その領域の境界部分を詳しく知っているかどうかはあまり考えない。でも、数ヶ月の後に、その境界付近にある「とっても面白いところ」に接近できるかの見込みは立てる。
……私が次に書く本を考えているときには、そんなことをイメージしているように思います。
書き始める時点では知らなくてもよいけれど、書き終えた時点ではかなり詳しくなっているはず……という微妙な案配を見極めるのは難しい。つまり、「自分がすでに知っていて何も考えなくても書ける」という難しさの本だと、私は書いていてつまらなく感じる。それよりも「調べつつ・考えつつ・謎解きしつつ書かなくちゃ」という難しさの本がよい。
そのときに大事なのは、自分が「ほんとうに、ほんとうにわかった」というレベルまで考えること。まあ、でも、そのレベルまで考えたかどうかは、本を書いてみればかなりわかるのですが(物語の形にできれば、もっとよくわかる)。
その「レベル」というのは、他の人との比較ではない。自己基準で構わない。他の人の理解より浅くてもいい。でも、現在の私はここまで理解できた、と明確に感じ取ることがポイントかもしれない。他の人との比較をしないというのはとても大事。自分の絶対評価でよい。だから、焦る必要はない。
たとえば、恥ずかしながら、結城は「互いに素」という概念をよく知らなかった。最大公約数が1であること、というのは知っている。でも、しっくりこない。テトラちゃん的に言えば《わかった感じ》がしないのだ。『数学ガール/フェルマーの最終定理』の「互いに素」の章を書いて、かなりわかった感じになった(ほんとはもっと長い章にしたかったけれど、本全体の構成上割愛しなければならなかった)。
そのときの感覚は、とても不思議。
結城自身がユーリの立場になって、「僕」やミルカさんから教わっている感覚になるからだ。
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※2008年08月12日の「結城浩の日記」から。
http://www.hyuki.com/d/
※Photo by webtreats.
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