いまの自分にしか書けない文章を、書こう!(文章を書く心がけ)
「心の物語」というコーナーを先日アップデートしていました。
このコーナーは、結城が1996年(当時32歳)から2006年(当時42歳)にかけて書いていた短いお話たちを集めたもの。ほとんどが一分も掛からず読めるような、ほんとうに短い「物語」です。
これらの物語を書いたのは、何か目的があったわけではありません。でもいま読み返すと、私としては、これらを書いていたときの自分の心情を思い「なるほど」と感じるところがあります。
当時は自分なりに思い悩むことがありました。仕事のこと、どんなふうに生きていくのか、世界のあり方と自分の関わりについてなど。正解のない、結論の出ないことをもやもやと考えていました。
そんな中で、これらの「心の物語」と題した文章を「やむにやまれず」書いていました。たぶん、これらの文章を書くことは、自分の心のために必要なプロセスだったのだろうと思うのです。「心の物語」というコーナー名もそれを象徴しているようですね。
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人生には「そのときにしか書けない文章」というものがあります。もっと経験を積んでから書くのではない。もっと勉強してから書くのでもない。経験を積んでから、勉強してから書いたのでは意味のない文章です。
それは「いまの自分」にしか書けない文章です。「いまの自分」が書かなければ、世界中の誰も書くことができない文章。未来の自分にも書くことができない文章というものがあるのです。
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文章を書くとなると、どうしても、「上手くなってから書きたい」とか、「下手な文章は恥ずかしい」という思いがわくものです。
しかし、いまは「文章が上手・下手」という話をしているのではありません。「自分の足跡を残す」という話をしているのです。自分が歩む足跡を残すのに、上手いとか下手とかいってもしょうがありません。
いま、ここに私は生きていて、他ならぬ私が言葉を選び、並べ、悩みと迷いのうちにリリースする文章があるのです。それは、世界中で私一人だけが書く、過去から未来までを通して現在しか書けない文章です。
書こう!書こう!書かなくては!
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文章を書こうとすると、足を引っ張る人が必ず現れます。必ずです。
「おまえの書くものに価値はない」
「もっとちゃんと勉強してから書いたら?」
「文章を書くなんて何様?」
「どうせ続けられないくせに」
そのような雑音をわざわざ伝えに来る人が現れます。ときにはその「人」は自分自身だったりします。
蹴飛ばそう!
そんな言葉は、心のうちで蹴飛ばしてしまえ!
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もしもあなたが文章を書きたいと思うなら。
なぜかはわからないけれど、やむにやまれず書きたい気持ちに押し出されるなら。
書こう。ただ、書こう。
自分を含めた誰かが足を引っ張ろうが、モチベーションを下げてこようが、否定的な言葉を投げかけてこようが。
とにかく、書こう。書くんだ。
「おまえの書くものに価値はない」
とにかく書かなければ価値があるかどうかすらわからない。だから、書く。
「もっとちゃんと勉強してから書いたら?」
書くこと自体が勉強なのだ。書き続けることが勉強なのだ。だから、書く。
「文章を書くなんて何様?」
私は私。いま、ここにいるのは他ならぬ私だ。だから、書く。
「どうせ続けられないくせに」
そんな言葉に惑わされたら続けられない。だから、書く。
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他者の批判に耳を傾けないということではない。他者のアドバイスを受け入れないという意味ではない。
とにかく書かなければ、批判もアドバイスもあったものじゃないという意味だ。まずは、書こう。まずは、形にしよう。
すべての話はそれからだ。
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あなたにネガティブな言葉を投げつけるネガティブ氏は、五年経っても十年経っても、ネガティブな言葉を投げつけてくるだろう。
もしかしたら十年後に、「この十年、何も書いてこなかったね」とネガティブ氏は言ってくるかもしれない。
そんな輩に振り回されず、あなたはあなたでしっかり書こう。五年でも十年でも、書き続けよう。あなたが書き続けた時間はあなたの宝物だ。誰にも奪うことのできない、あなたの宝物だ。
ネガティブな言葉を投げつけてくる人は、その人のロジックで動いている。受け入れるか否かはあなたの選択だ。
「この人のいうように、私なんかが文章を書いても意味ないな」
と考えるのか、
「いや、私は書き続ける」
と考えるのか。
それは、ネガティブ氏の選択ではない。それはあなた自身の選択なのだ。
さあ、書こう!
いまの自分にしか書けない文章を、書こう!
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結城浩の「コミュニケーションの心がけ」2018年2月20日 Vol.308 より