どんなふうに生きていこうか
ときどき「どんなふうに生きていこうか」と思う。
といっても、大きな目標があるわけではない。結城はこれまでも「《次の一歩》はこうしよう」という感じに進んできた。できそうなことをやってきて、できないことはやってこなかった。まったく目標への道がわからないけれど、ここへ向かおうというほどの力量はなかった。いつも「次の一歩」だけを考えてきたように思う。しかし、それでも十分たいへんだった。
大きな目標はなくて、今後もきっと「次の一歩」を考えて進むことになりそうだ。そしてそれに対して特に不満はない。
感謝なことに、結城のささやかな活動を応援してくださる方は、非常にたくさんいらっしゃる。それで何とか生計が立っている。まったく感謝なことである。これ以上何を望もうかというほどに。
「どんなふうに生きていこうか」という問いかけは大きなものだけれど、それに対して、
「次の一歩をよく考える。良いと思うことを続け、違うと思うことをやめる」
という、まるで小学生のような答えになると思う。
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五十を過ぎると「人生」という言葉を使う機会が多くなる。五十を過ぎてしみじみと「人生は短い」と思う。人生は短くて、自分ができることの分量には大きな制約が掛かっている。それは能力とか機会という以前の話である。そもそもの時間が短いのだ。
人生は短い。
ときどき、
「ビルゲイツは何歳でこれをやっていた」
「だれそれは何歳でこんなことを成し遂げた」
という話題がある。それに比べてあなたはどうか。それに比べて自分はどうか。そういう論説である。
多くの場合は「能力のある人は若い時代からこんなことができていた」という主旨で語られる。でも、別の見方もできる。
つまり、活動に年齢など関係がないということである。やりたいことを早くやって、何も悪いことはない。老人に許可を求めるなよ、ということだ。
偶然のためか、天才のためかは知らないが、たまたま若者が「何か」を見つけたとしよう。すばらしい発想のビジネスであれ、科学上の発見であれ、何かすごいことの萌芽を見つけたとしよう。
「これは、もしかすると、すごいぞ」という何かを見つけた若者が、古い発想の老人に、
「あの、ボク、これやってもいいですか?」
と許可を求めるのは悲しい光景ではないだろうか。「やめろ」と言われたらやめるのだろうか。「やめろ」と言われてもやるんだよね。だったら、最初から聞くなよ。
老人は……少なくとも、物事のよくわかった老人は、喜んで若者の尻ぬぐいをする。若者の失敗の責任を喜んでかぶる。それは、失敗の意味を知っているからだ。若者が、失敗の果てに未来を作り出すことを知っているからだ。
若者は、老人に許可など求めず相談もせず、たくさん「やらかす」。そして、老人が必要ならばその尻ぬぐいをする。そのためのバッファを老人は確保している。そんなこんなしているうちに、多数の若者のうちの誰かが、大きなブレークスルーを起こす。 十年に一度」か「百年に一度」かは知らないが、その大きなブレークスルーに世界全体が期待する。
結城はそういう社会は(多少殺伐としているものの)、健全な活力をもった社会ではないか、と想像する。無力な老人に許可を求める若者や、有能な若者にたかる老人というのは健全ではない。
おっと、ちょっと強い言い方をしてしまった。いささか言い過ぎたかな。
でも、若者は自分を忘れるほどの大きなヴィジョンを広げ、老人は自分を忘れるほどの深い夢をみる。それが健全な社会ではないかと思う。
過去をたくさん見てきた老人こそ、深い夢を見ることができる。血気盛んな若者こそ、大きなヴィジョンを広げられる。立場が違えども、自分の今を生かすことができる。
若者は老人を尊敬し、高い抽象度のアドバイスを受け入れ、老人は若者を応援し、実利的なサポートをかげながら受け持つ。そして互いに、尊敬や応援に応えられる存在になろうと心がける。そんな関係ならば麗しいのにな、などと思う。
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結城はまだ自分を老人とは思わないけれど、若者だとも言いがたい(若者だと思っているけれど)。まだまだ自分の仕事をしていくけれど、若者を応援する気持ちはたくさんある。
もしも、そういうタイミングがあるならば、若者の尻ぬぐいをするのもやぶさかではない。少なくともそういう気持ちは持っている。
以上「どんなふうに生きていこうか」というお話でした。
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※結城浩の「コミュニケーションの心がけ」2015年6月16日 Vol.168より
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