現代に生きるということ(日々の日記)
現代に生きるということ。
「現代に生きるということ」などと大上段に構えてしまいましたが、たいした話を書こうというのではありません。ただ、ここ数年来感じていたことを言葉にしてみたいなと思っているだけです。
結城は、Twitterにどっぷり浸かっていて、「ここで生活している」と表現してもおかしくはありません。それだけ頻繁にTwitterを読み、Twitterに書いています。
Twitterにはいろんな方がいらっしゃいます。自分が読んでいる本の著者さんや、自分が楽しんでいるコミックの漫画家さん。結城は『ささめきこと』や『34歳無職さん』というコミックが好きなのですが、作者のいけだたかしさんとTwitter上でちらっとやりとりしたことがあります。ほんのちょっとしたやりとりでも嬉しいですよね。
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あたりまえのことですけれど、自分が楽しんでいる作品を作っている作者さんは、ちゃんと人間として生きていて、この地球上にいる。そして、ネットのおかげで考えていることや感じていることがわかる。ほんとに何をいまさらな話ですけれど、正直すごいことだと思うのです。
グーテンベルク以前、写本しかなかった時代には、印刷された文章を読むことはできなかった。ということは、テキストに「出会う」ことが極めて特権的なことでした。そういう時代が地球上にあった。
でも、現代という時代は違います。まったく違う。テキストに出会うどころか、そのテキストやイラストやコミックを生み出しているご本人と、リアルタイムのやりとりができる。現代はそんな時代です。本当に驚くべきことです。
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ところで、そんな当たり前の話をぼんやり考えているうちに、ふと、気付いたことがあります。
遠い遠い昔、貴重なテキストに「出会う」人は限られていた。いいテキストに出会うのは、特権的なことであった。逆に言うなら「私が読むべきテキスト」に出会える人は少なかった。
では、現代はどうだろうか。
実は現代でも「私が読むべきテキスト」に出会うことは、とても難しいのではないだろうか。
検索すればいいって? ちょっと待って。自分が何を読めばいいか、具体的なタイトルが分かっていればいいよ。でも、そうとは限らない。
本屋に行けばいいって? ちょっと待って。本屋に並んでいる膨大な本から、どうやって見つけるの?
確かに、現代は、技術的にはすばらしい時代である。でも、ほんとうに大切なことにリーチしているのだろうか、とも思う。
「そこそこいいもの」には、すぐに出会える。
「ちょいと楽しめる」ものは、すぐに見つかる。
しかしながら「私が、他ならぬ私が、いまこそ読むべきもの」に出会えるだろうか。出会えているだろうか。
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もちろん、こういう問いの立て方はかなり恣意的である。いまさらテキストに限定するのか、とか。それなりにいいものでも、積み重ねていけばよい経験に、とかね。いろんな反論は可能である。そして、そもそも厳密な解を求めている問いでもない。
便利な時代、結構だ!
著者にネットで会える、最高だ!
Twitterで聞けば答えがやってくる、いいじゃん!
でも、結城は、それがすべてなのだろうか、と思ってしまう。それでいいのだろうか、と思ってしまうときがある。
便利さを否定するのでもないし、不便な時代に戻れと主張するのでもないけれど、何か引っかかるものを感じるのだ。
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結城のささやかな経験からの話だけれど、ほんとうにほんとうに大切なものを見つける瞬間というのは、とても「孤独」なときであることが多い。
悩んで悩んで、自分に嫌悪して、どうしようもなくて、しかしながらそのときに、なぜか惹き付けられるものに出会う。うまく言葉にならず、形にもならないけど、「これは、すごい」と思う時のことだ。
結城の人生を変えた「出会い」はたくさんある。たとえば現在の妻との出会い。信仰との出会い。一冊目の本を書くときの編集長との出会い。WebやCGIとの出会い。GoFのデザパタ本との出会い。そして数学ガール、ミルカさんとの出会い。
その「出会い」の前後には、自分自身に悩み落ち込み幻滅して死ぬような時期があった。とても「ダメダメ」なときといってもいい。
ネット? あったかな。いや、確かにあった。
読み物としての「数学ガール」の公開はWebから始まったから。でも、ネットは本質ではなかったと思う。ネットはメディアであり通信手段だ。
肝心なところはそこにはない。確かにネットは物事を加速させる。ネットは物事をパワーアップしてくれる。増幅し、拡大し、個人ではできないことまで可能にしてくれる。でもネットが行ってくれるのは「量」の変化だ。「質」や「方向」は、もっと「ささやかなもの」で制御されている。
ネットは力だ。自分の能力を増幅してくれる。でもそれは、ベクトルでいうところの「大きさ」を変えているに過ぎない。ネットという力を手に入れた自分をどっちに向けるのか。自分はどちらに向かうのか。「どちらに私は向くべきか」の答えは、ネットからはやってこない。
宝くじの一億円。ブログのPV数。Twitterのフォロワー数。テレビの視聴率。あとは何だろう。年収? 友人の数? ……それらはすべて「量」である。その「量」を、もしも自分が手に入れたときに、何をするか。何を求めるか。それは、きわめてひそやかな、「わたしが持っている心」から生まれる。
ネットは力を与えてくれる。自分の「大きさ」を増してくれる。しかし、自分の「向き」を定めるのは自分の心に他ならない。
いろんな学問は、多くのことを教えてくれる。「どうすれば、どうなるか」を教えてくれる。でも、学問が教えてくれないこともある。それは、
「あなたという個人は、何をしたいのか」
あるいは、
「わたしという個人は、何をすべきなのか」
という問いへの答えだ。
それは生き方の問題であり、きわめて個人的なものだから、誰も教えることができない。
「私は何をしたいのか」
「私は何をすべき存在なのか」
「私は何をすべきではないのか」
そのような問いに対して、他者が答えを与えることはできない。だってそれこそ「あなたはどう生きるのか」に対する答えだから。
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しちめんどうくさい話をしているのではない。なぜなら、非常に多くの人が、愛する人との関係において「ほかならぬ自分」のことを考えるから。
彼女に対してプロポーズするときに「ほかならぬ自分」のことを考える。
自分が愛する女性がここにいる。この女性も自分のことを、それなりには好いてくれるようだ。よし、ここだ! 自分の人生の勝負どころは、ここだ。私はこの素晴らしい女性を何とかして私の伴侶に迎えたい。そのためのメッセージを彼女に送りたい! ……と考える。
そのとき、彼女に伝える言葉は、本人が考えるしかない。私はどんな人間であり、どういう人生を送ってきて、これからどういう人生を歩みたいと思っているか。そして、私があなたのことをどのように思っているか。それを伝える言葉は、本人が考えるしかない。
結城は言葉の人だから言葉で表現する(彼女にせっせと手紙を書いた)。絵を描く人は絵で、音楽の人は音楽で、自分自身を表現するだろうか。そしてそのときに問わざるを得ない。
「ほかならぬ私は、どういう人間なのだろうか」
現代は、多くのものが便利になっている。その最高峰がネットである。
ネットで検索して答えを得る。
ネットで検索して有名人に出会う。
ネットで検索してテンプレの文章を得る。
ネットで検索して……
あれ?「私」ってどこにあるんだろうね。
ネットはメディアに過ぎない。ネットはツールに過ぎない。まるで魔法のように発達しているけれど、ネットがメディアであり、ツールに過ぎないことはまちがいない。
現代に生きるとは、どういうことか。
あなたの人生を決定するのはネットではない。
ネットに、あなたの人生の答えがあるわけではない。
現代に生きる人間として、ネットを使わないというのは愚か者だ。しかし、ネットに「ほかならぬ私という個人に関する解答」がすべて載っていると考える人は、それよりもはるかな愚か者である。検索しても人生の答えは得られない。
ネットにアクセスして有益な文章を読む。著名な人とコンタクトを取り、有意義なやりとりをする。イベントを探してすばらしいひとときを過ごす。そこにはまったく問題はない。問題があるとすれば「それがすべて」と思う誤解だ。
胸に手を当てて考える。「私はどういう存在なのだろう」と。
お風呂で髪を洗いながら思う。「これから私はどう生きていけばいいのかな」と。
居酒屋でトイレに立ったときに思う。「自分がこの世でなすべき仕事はなんだろう」と。
結城が、その問いに対する答えを持っているわけではない。その答えはひとりひとりが探すものだから。結城がいいたいのは「ネットは大事だが、すべてではない」ということである。
ネットは大事だが頼りにはならない。あなた自身が学び、あなた自身の言葉で、あなた自身の人生を切り拓くのだよ、といいたい。
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あなたは、何を大事にしますか。それを価値観と呼びます。
あなたは、誰を大事にしますか。それを愛する人と呼びます。
あなたは、何を求めて生きますか。それを人生の目標と呼ぶのです。
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現代に生きるということ。
考えてみれば、どんな人間も、その時代における「現代」に生きている。
どんな人間も、「ほかならぬ、私」という人間を生きているのだ。
あなたは、どんな「あなた」を生きていますか。
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結城浩はメールマガジンを毎週発行しています。
結城浩の「コミュニケーションの心がけ」2016年3月1日 Vol.205 より