生きている意味と自分に与える猶予(日々の日記)
生きている意味についてよく考える。
私たちはふだん、当たり前のように日常生活を送っている。年齢に応じて、自分が与えられた環境に応じて生きている。
具体的にいうなら、生徒や学生は学校に通い、社会人は会社に通う。家庭の仕事をしている人は、家にいて与えられた「業務」をこなす。休日になればいつもと違う日常を求めて出かけ、思い思いに時を過ごす。
でも、自分に対してプレッシャーが掛かったり(〆切や納期が近いとか)、非日常が襲ってきたりするとき(家族に不幸があったり事件が起きたり)には、ふだんとは異なる視点が生まれる。日常とは違う視点だ。それはしばしば、
「私は何のために生きているんだろう」
と表現される。何のために生きているのか。それは深い問いだ。
そのような問いは、若い人にも、若くない人にも等しくやってくる。多くの場合、若い人は純粋でシンプルな答えを求め、極端な行動に走る。若くない人は多くの事例を見ているために、悲しげに首を振りつつも、現実的な解を探る。どちらの場合でも、明確な解答が与えられるわけではない。
私たちの中で、自分の意志でこの世に生まれてきた人は誰もいない。 例外なく、すべての人が「はっと気がつくと」この世に生きていたのである。自我の目覚め。自意識の目覚め。はっと気がつくと、自分は20世紀/21世紀の日本に生まれ、なぜか生きている。なぜか生きている。これは驚きではないだろうか。
そのような根源的な問い、実存的な問いと共に、私たちには日々のささやかな問題が降り注いでくる。生徒や学生なら、次の試験が気になるだろう。適齢期なら、恋愛問題が気になるかもしれない。既婚者なら配偶者とのやりとりが……という具合に。ささやかな、日々の悩みである。
悩むとき、人は旅に出る。
スカイツリーのてっぺんに上る人もいれば、日本海を見にいく人もいる。どこに行こうとも、何をしようとも、旅の目的は明確だ。現在の自分《以外》の視点で、世界を見たいのだ。見直したいのだ。
いま、自分は自分の生活を見ている。しかし、どうも、何かが変だ。何が変なのか。どこがおかしいのか。それを知りたい。
だから、人は、旅に出る。
* * *
人間がこの世で抱く悩みの大半は人間関係の問題だ。そして少なからぬ悩みが「自分という人間」との人間関係になる。人は、人と折り合いを付けるのが難しい。特に、自分自身と折り合いを付けるのが難しい。不思議だよね。自分は自分なのに。一番近い存在なのに。一番わかっているはずの存在なのに。自分自身と折り合いが付かないなんて。
幼少時代、親からひどい言葉を投げつけられ、つらい思いをした人は多い。ときどき、そういう方からメールなどをいただく。そのようなつらい話を聞くたびに、結城は泣いてしまう。
子供は子供だ。幼い子供にとって親は世界である。親からの否定とは、世界からの否定を意味する。世界に否定される衝撃はどれほど大きいだろう。その痛みはどれほど深いだろう。
そのような苦しんでいる人のことを思うと、涙が出てしかたがない。私が泣いても世界は変わらないだろう。しかし、世界から否定されるつらさを想像して、泣かずにはいられない。物理的に涙が出てくる。私には何もできない。ただ、涙を流すだけだ。メールを送ってくれた人のことを思いつつ。
結城自身は、それに類するつらい体験はほとんどない。親からは大事に育てられたから。両親は、ぎこちないながらも私を大事に育てようとした。良いものを与えようと試みた。それは必ずしもすべて成功したわけではないけれど、でもその心意気は十分伝わっている。だから、親に感謝している。その感謝はなかなか返せないのだけれど。
親の立場であれ、子供の立場であれ、人間として生きるという意味では変わりがない。私たちは知らない。なぜ、何のために、いまここに生きているかを知らない。
本の後ろをめくって「解答」を探すことは、人生では不可能なのだ。解答はわからない。解答があるかどうかもわからない。誰からも、「はい、正解です。あなたの生き方は正しいです。マルです」と言ってはもらえない。
しかし、それでも、私たちは生きる。
私たちは「生きる」意味を求めながら生きている。私たちは「よく生きる」とはどういうことか探りつつ生きている。違いますか。もしそうでなければ、私たちは悩まないはずだ。
こうしたほうがいいだろうか。
これはやめたほうがいいだろうか。
私たちは考え、悩む。それは「よく生きたい」と願うからだ。どう生きようとかまわないなんて考えるなら、悩みはなくなるだろう。悩むのは「よく生きよう」と願うからだ。私たちはみな、答えを求めて走り続けているのだ。
ばかな年寄りは「昔はこうだったんだぞ」(だからお前もこうしろ)という。それは愚かな言明だが、年寄りは愚かなりに「良いこと」を伝えようとしている。その意見がいくら老害であろうとも、唾棄すべき意見だとしても、自己満足と自己承認のゆえだとしても、悪いものを伝えようとはしていない。
私たちは現在生きている。だからSNSを通じてコミュニケーションしている。コミュニケーションできる。生きているから動的であり、変化する。でも、生きる意味を知らない。当然だ。はっと気がついたら生きていたのだから。しかし、なんとかそこに意味を見出したいというのは人情である。
* * *
結城は「私は生きる意味を知っている」とここで言いたいわけではない。そもそも知らないから。確かに自分なりの仮説はある。このように生きればいいのではないか。これが生きる意味ではないか。たとえ誰から否定されようとも、私はこう生きる。こう生きたいと思っている。そういう仮説のことだ。
結城は、自分が経験したり体験したりしたことをベースに、「こういうこともありうるよ」ということを書いていきたい。押しつけがましくは言いたくない。「あなたは、こうでなければいけない」や「あなたは絶対にこうすべきだ」ということは言いたくないし、言えない。
私たちは、なぜ、いまここに生まれてきたのか、それを知らない。しかし、自分なりに懸命に生きようとしている。それは確かだ。
結城は、押しつけがましくは言いたくないが、言いたいことはある。それは、
あなたが思っている自分自身の姿は、
現在という時刻のスナップショットに過ぎない
ということである。
言い換えるなら、あなたは、これからどんどん変化していく。あなたは、これから変化し続けていくということ。
あなたは生きている。だから、変化する。
世の中も生きている。だから、変化する。
* * *
あなたがもしも、
「自分には能力がないから、私は無価値だ。
生きていく価値はない」
というなら、それは完全にまちがいだ。
あなたには未来を見通す力はないのだ。だから、あなたは「自分は無価値だ」なんて絶対に言えない。
もしもあなたが「自分には能力がない」というなら、あなたが持っている「自分の能力を見極める力」も、たいしたことがない。自分に能力がない人は、自分に能力がないと主張することはできない。本当に馬鹿な人は、自分を馬鹿だと判定できない。
人間に能力があるか否かを判定するには、非常に高い能力が必要である。あなたにはその能力はない。だから、あなたには、あなた自身の能力を判定する力はない。
結城は二十代のときにそういう思いをよく抱いた。私はなんと非力な存在だろう!ちょっと待て。本当に非力なら、自分が非力だと判定できないじゃないか!
「オレには未来永劫そんなことはできない! オレには能力がない!」という主張は自己矛盾をおこしている。あなたには(わたしにも)、自分にそれが未来永劫不可能だと判定できる能力がない。
* * *
結城からのお願いが一つある。自分に「猶予」を与えて欲しい。自分自身に「時間の猶予」を与えてほしい。未来のために。自分のために。
結城は、自分の能力や未来に悲観的な思いを抱いている人に向けて、この文章を書いている。あなたがその人かどうかはわからない。他ならぬあなたに、この文章が必要かどうか、私にはわからない。
あなたに能力がないというのは、
あなたに未来があるという証拠なのだ。
能力がなければ、自分の未来を判定するなんてできない。このロジックが伝わるかしら。伝わったらいいな。私はあなたが誰かを知らない。Twitterでアイコンは知ってるかも。ハンドル名も知ってるかも。ネットで行った活動も知ってるかも。メールで言葉をやりとりしたり、もしかしたら会ったこともあるかしら。でも、あなたがほんとうの意味で誰かなのかは知らない。
でもあなたは知っている。あなたは自分が誰かを知っている。だから、ぜひ、あなたはあなた自身にはげましを送ってほしい。「はげまし」というのは具体的に何か。それは「時間」である。時間という名前の猶予である。
いますぐ、結論だせ! ではない。
いますぐ、結果を見せろ! でもない。
いますぐ、実績を示せ! でもないのだ。
あなたは、ぜひ、あなた自身に、時間を与えてほしい。たっぷりと、時間を与えてほしい。弱っている自分に、悩んでいる自分に、困っている自分に、時間を与えてほしい。それは猶予であり、はげましとなる。
それは自分を大切にするということであり、自分に時間を与えるということでもあり、「自分には能力がないから無価値だ」という言葉を強く否定することだ。自分に能力がなければ、自分を無価値だと断じることすらできないはずだろう?と言ってやれ。
行動の前には愛が必要だ。元気のためには愛が必要だ。解決には愛が必要だ。お願いだから、自分自身に愛を与えてほしい。
それが、結城からあなたへのお願いである。
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結城浩の「コミュニケーションの心がけ」2016年2月9日 Vol.202 より
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